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青梅街道に沿って流れていた「半兵衛・相澤堀」

「半兵衛・相澤堀」の由来

井伏鱒二著の「荻窪風土記」に荻窪駅北口前の青梅街道沿いのドブ川に落ちた知人の話が出てくる。パンツひとつになって、バケツの水で洗い流したけれども手足にしみ込んだドブの臭みが翌日までも残ったとある。このドブ川と書かれている流れは、昭和初期に青梅街道が現在のように道幅が広げられる前まで、街道の北側に沿って流れていた川ともドブともいえる溝のような、水田の用水堀であった。幅は1.5メ-トルくらい、深さは地表から水面まで1メ-トルくらいあった。

この用水堀は、江戸中期(1710頃)に設けられたものである。その源流は多摩川で、江戸町民の飲料用として完成した玉川上水(承応3年・1654)から分水した千川上水(元禄9年・1696開設)の飲料水を水田の潅漑用に使用するために、さらに分水して開削されたのがこの「半兵衛・相澤堀」である。
当時、この用水が「半兵衛・相澤堀」と呼ばれていたのは、この用水の恩恵を受けた下井草村と阿佐ヶ谷村の名主であった「井口半兵衛」と「相澤喜兵衛」の名に由来すると考えられる。この両人が近隣の上井草、天沼、鷺の宮、下荻窪などの村々と協議して幕府に申請し、許可を得た結果、この堀を設置することができたものと思われるが、この許可に当たっては、阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪各村の領主であった、徳川将軍家の信仰厚かった山王の日枝神社があずかって力になったと考えられる。

現在の水道端停留所付近:  コンクリ-トの塀と手前のフェンスの間に千川が流れている。青梅街道の向う側の信号の右に暗渠となった千川の遊歩道が続いている。

現在の水道端停留所付近:  コンクリ-トの塀と手前のフェンスの間に千川が流れている。青梅街道の向う側の信号の右に暗渠となった千川の遊歩道が続いている。

「半兵衛・相澤堀」の始まりから流末まで

この堀は、現在、千川が練馬区関町で青梅街道の下を潜って上石神井町へ出るところに架かっていた出店橋(でだなばし)と呼ばれた橋から発していた。取水口は関町側にあって、ここから下流2キロメ-トル余りは街道の南西側を流れ、荻窪八幡手前の旧上井草村と上荻窪村の境界地点で街道の下を潜って、ここからは街道の北東側に沿って3キロメ-トル強を下っていた。現在の阿佐谷南3丁目の杉並第七小学校辺りで街道を離れ、阿佐ヶ谷駅方向に流れていく所までで堀は終わっていた。

江戸末期に刊行された「御嶽菅笠」という御岳神社への参拝案内書から、取水口付近の当時の景色を描いた絵図を見ると、この絵の右下部分の千川が橋の下に流れ込む手前のところに取水口があった。(現在でも取水口はあるが外部からは見えない)その案内書の端書(はしがき)には「四ツ谷より荻久保の中屋まで、二里四丁 中屋より石神井伊国屋まで一里二町、伊国やより柳澤まで一里二町」とあるが、その挿絵に見るように橋の向こう側に水番小屋と川を挟んで左側に伊国屋とおぼしい店構えの家がある。

全長5キロメ-トル余りのこの用水の道中には6カ所の分水口があって、それぞれの水田への配水路が小川になっていた。堀の上流から、分水口の名称・略称・流域の主たる村名・田の面積・流末等を次に説明しよう。

 【絵図】 「御嶽菅笠」上石神井村付近 (前頁の写真とほぼ同じ位置からの風景)

 【絵図】 「御嶽菅笠」上石神井村付近 (前頁の写真とほぼ同じ位置からの風景)

田用水の分水の記録から

用水堀の開削事業の推進者は、下井草村名主の井口半兵衛と阿佐ヶ谷村名主の相澤喜兵衛の両人であったと考えられるとは既に述べたところである。ところで、下井草村の井口半兵衛家は江戸後期に火災によって住居等を焼失していて記録文書などは殆ど残っていないが、名主退任の寛政6年(1794)に後任の井口源右衛門に引継ぎ文書として書いたと思われる「御届留帳」が残っている。その中に、明和7年(1770)の「六ケ村願書」とした個所に書かれていた用水の各分配水口の寸法がある。この文書と後年の文政5年(1822)の堀清掃に当たっての「出務要請の触れ書控え」を基にして作成したのが下表の「堀からの分配口の状況一覧表」である。

田用水の現況はどうなっているだろうか

これらのかつての水路は現在どうなっているのだろうか。現在これらの水路はすべて暗渠(あんきょ・地下水路)となっていて、主として遊歩道になって現存している。
上図の(5)天沼口から桃園川に至る水路のようにほぼ100%から、その他は95%くらい、最低の(4)四面道口から南に行く水路でも30%程度は残っているので、これらの遊歩道の入り口から末端までを紹介しておきたい。

(1) 切り通し口からの水路
切り通し公園から旧井草川の水源に合流するこの水路は、都立杉並工業高校の東から西武新宿線に沿うように流れ、途中線路の北に出たりして井草森公園の南の坂下を東進し、桃井第五小学校の北東方を廻って西南進して、妙正寺池の東で妙正寺川へ合流する。今は樹木の多い遊歩道で、道中には小休止する設備もある。

(2) ひしゃく屋口からの水路
桃井1丁目19番、桃井公園の西側道路の少々街道に寄ったあたりから現存していて、ここから住宅の境界、あるいは道路に沿って北東進し、環8道路を越してNTT井草の南を東進し、(3)清水口からの水路と合して妙正寺川へ流入する。

(3) 清水口からの水路
四面道交叉点北から住宅地の間や道路と一緒になったりして北東進し、(2)ひしゃく屋口からの遊歩道とNTT井草の東で合流して妙正寺川へと進む流路である。分配口は、四面道交叉点の清水1丁目15番の郵便局と環8道路の排水施設建物の間の幅1メ-トルほどのコンクリ-トの段を上がったところから始まる。流路には現在でも湧水している所がある。

(4) 四面道口からの水路
唯ひとつの南進コ-スである。四面道交叉点南の環8道路に南西方向から来る観音御出(かんのんおんだし)と呼ばれた昔からの道がある。この道の北側2軒目の薪炭商、湯沢宅方の敷地西側隣家との境のコンクリ-トで固められた幅数十センチの余積地が用水堀からの分水路の名残りで、後半部が白山神社の南側に出現するまでの途中はすべて環8道路に呑み込まれてしまった。流れはJR中央線の下を南に出て、桃二小学校あたりを通って末端は善福寺川に連なっていた。

(5) 天沼口からの水路
桃園川の遊歩道として現在でも流路が100%残っている。堀からの流入部は、荻窪駅北口の青梅街道北側にある「りそな銀行」と「JTB旅行社」との間から始まり、旧桃園川となって約6キロメ-トル東流し、JR中央線東中野駅の南方500メ-トルの所で井の頭池から流れ出た神田川に合流していた。
天沼3丁目にあった弁天池の水を合わせ、流域の天沼と阿佐ヶ谷両村の水田の潅漑用水として多大な働きをした水路である。

(6) 阿佐ヶ谷口からの水路
青梅街道からの入路は明らかでないが、阿佐谷南3丁目10番と11番の境あたりと想像される。街道から北に離れた流路はやがて北に向きを変え、杉七小学校の周囲を廻ってJRの阿佐ヶ谷駅南口方向に向かって行くが、この小学校ができるまではこの校庭を横切って流れていたのではとも思える。
駅南口を過ぎ線路下を潜って北側に出て、けやき屋敷の「相澤喜兵衛」邸の前をとおり、東方のけやき公園で(5)天沼口からの旧桃園川に合流となっている。

上記のほかに、この用水堀の開削当初にはなかったが、後になって設けられたのかと思える分配口と水路がある。「保久屋口(ぼくやぐち)」の名称とその水路跡が桃井4丁目5番の西武日産販売と東隣のジャガ-ジャパンとの間にある。
もう一つは、桃井3丁目の「桃井原っぱ広場」の中央あたりから東方に流れ出していた水路跡が現存している。これらの両水路は相互に関連していた可能性も考えられるが、ここは戦前・戦中の中島飛行機製作所の跡地であり、詳細は不明であるので記録しておくに留めたい。

千川分水 半兵衛・相澤堀関係概念図

千川分水 半兵衛・相澤堀関係概念図

DATA

  • 取材:井口 昭英
  • 掲載日:2007年01月15日
  • 情報更新日:2020年05月15日