明治5(1872)年、明治政府は「邑(むら)に不学の戸(いえ)なく戸に不学の人なからしめん」という方針の下に日本の学校教育に着手した。
全国を8つの大学区に分け、1つの大学区に32の中学区を設け、1つの中学区を220の小学区に分けた。その小学区に1校の小学校を開設する計画をたてた。
同5年の「学事奨励に関する被仰出書」に当時の教育の目的などが記されている。「教育は、立身治産のために、身を修め、智を拓き、才、芸を長ずるにあり」と述べ「日常の職業に役立つ学問なので、費用は官費でなく人民自らが負担すべきもの」という考えにあった。校舎は、寺院と民家の借用が7割近くであった。
西洋建築の粋を集めた長野県松本市の開智学校のような校舎は全国で26%に止まった。教育指導者も僧侶や神官などが大半であったと考えられる。
杉並地域の就学率を明治41年の統計でみると、1、2年生は低い学校で39%、高い学校では63%程度であった。高学年になるともっと就学率は少なくなっていた。
今日のような義務教育制度が確定したのは明治末であり、国定教科書も定められ、教育が民から官へという動きになっていった。
杉並には68の区立学校がある(令和4(2022)年現在は、小学校40校、中学校23校)。それぞれ校章を持っていて、どの学校もその地域の特徴や開校の理想を念頭において定めている。それをじっと見ているとそれぞれの学校の生い立ちや想いが浮かんでくる。
私の母校「和田尋常小学校」は大宮尋常小学校を親として、大正末に分教場となり、昭和7(1932)年杉並区の誕生と共に独立した。大宮小学校はこの他に新泉尋常小学校、堀之内尋常小学校も産んだ。各学校は独立の時に親学校である大宮小学校と同じデザインの校章を制定した。
4校に共通した校章のデザインは、この地の鎮守である大宮八幡宮の鉾(ほこ)を象ったものである。親学校である大宮小学校は明治10(1877)年、当時大宮八幡宮を管理していた大宮寺の神官校舎を教室にして開校した。名称は「大宮黌」(おおみやこう:大宮学校)であった。
分校であった新泉、和田、堀之内の各小学校は「鉾」で親学校を頂き、各校の独自性はそれぞれの校名から一字を中心に据えて表した。
「泉」は和泉の地名から取ったものである。この地は養老伝説も残るほど良質な湧水が渇水期でも涸れることなく涌き出るところであった。そのため土地の人々は新しく独立した小学校に和泉の名を付けたかったのであるが、当時の学校は東京府立であったので、すでに和泉の名の小学校があったため、「新泉」の名を付けた。
「堀」と「和」は、それぞれ歴史と伝説のある地名をそのまま校名にした。
さらに、もう一つ共通しているデザインは中心の文字を囲む円である。これは太陽の昇る勢いを子どもたちの成長になぞらえて表したものであろう。この太陽信仰とでもいう想いは杉並の他地区の学校にも多く採り入れられている。
しかし孫学校になると違ってくる。最初に生まれた方南尋常小学校は新泉尋常小学校の子どもの学校であるが、校章は桜と富士山を組み合わせている。ただ共通しているのは中心の文字とそれを囲む円である。方南たんぼに新設された学校は周囲に桜を植え、秀麗富士を望むことができた。そういう土地柄を校章にまとめたものであろう。
済美小学校は、主に和田、堀之内小学校の子どもを中心に開校した学校である。校章は済美の名の元になった日本済美学校に因み、「剛健・気高さ・無我」を桜と樫に象った。松ノ木小学校は、堀之内小学校の分教場として開校された。校章は子どもたちを冬でも緑の松で温かく包んで育ててあげたいという地域の大人たちの気持ちを表している。
※新泉小学校は平成27(2015)年に和泉小学校と合併、新泉和泉小学校(杉並和泉学園)として小中一貫教育校となった
杉並区立の学校には「杉」を校章に取り入れている学校が22校(約30%)もある。
中でも、高井戸丸太に代表される良質な杉を生産した地域の「高井戸尋常小学校」はその杉を象って校章を定めた。また、高井戸小学校から独立した「高井戸第二尋常小学校」の校章も同じく杉を強調した校章にした。
しかし、同じ杉でも「杉並第一尋常小学校」及び「第十小学校」に至る9校は青梅街道沿の有名な杉並木に因んで、杉の葉と枝で「杉並」を象った中に、各校のナンバ-を据えた校章にして杉並を強調した。
この校章制定の歴史は、関東大震災の影響で旧杉並村に多くの人々が住まいを移してきたことから始まる。特に、中野駅に近い杉三小学校と阿佐ヶ谷駅に近い杉一小学校は毎日のように転入生があり、教室が不足したので近くの蚕糸試験場や神明宮を借用して授業を行っていた。そこで、村では新しい学校を大字「高円寺」の字「原」に建設することにした。「高円寺原尋常小学校」、現在の杉四小学校が誕生したのである。
この時、村は行政上、町になったので、それを期して杉並町長と4校の校長が集まって校名と校章を定めたと伝えられている。それまでは「桃野小学校」と言われていた杉一小学校、「成田」と言われていた杉二小学校、「高円寺」または「高円」と言われていた杉三小学校、それに杉四小学校であった。
ナンバ-の周りを昇る朝日の円で囲み、太陽に向かって伸びていく学校をイメ-ジした。杉はすくすく真っ直ぐ伸びて、しかも有用な材であるということも関係しているのはなかろうか。
杉一小学校は、明治8(1875)年中野村宝仙寺に、開校した公立第九番学校「桃園黌」(ももぞのこう:桃園学校)の第一番分校として、馬橋村の清見寺で呱々の声を挙げた。翌9年には独立して「桃野学校」となり、17年には現在の阿佐谷に移転した。
高井戸小学校は、明治8年公立第十番学校(高泉学校)と公立第十一番学校(郊西学校)が独立開校し、その後、高泉小学校は明治14年開校した高明小学校を合併し、さらに高泉小学校は明治24年郊西小学校と合併して「高井戸尋常小学校」となった。
明治34(1901)年に久我山に「高井戸第二小学校」を、下高井戸に「同第三小学校」を開校した。校長は親学校の校長が兼任していた。三校の校章は「杉並」のようなはっきりした歴史があったとは言えないが、地域の歴史を校章に生かしているのは杉並と同様である。しかし、第三小学校は近くの玉川上水堤の桜並木が余りにも有名であったので、それを校章にしている。孫学校の第四小学校も地域の特産であった杉と、学校の縁の桜を校章にした。これは「大宮前小学校」という校名の希望が多かったためであろうか。
※杉並第四小学校、杉並第八小学校は令和2(2020)年に合併、高円寺小学校(高円寺学園)として小中一貫教育校となった
杉一小学校が桃園学校の第一分校であり、桃井第一小学校は第二分校であった。当時、学校開校の許可権は郡役場が持っていた。しかし、学校建設から教師採用、運営まで全てが村民の財政負担であった。苦しい財政にも関わらず分校や独立校を持ったのは、明治政府の政策に従いつつ、家にとって貴重な労働力である子ども達の通学時間を減らして、その分を労働に当てるということが大きな理由であった。
桃園学校の分校であった杉一小学校は、校名に「桃野」をつけたが校章に「桃」を取り入れなかった。一方、校名を「桃井」とした桃井第一小学校は校章も「桃」を取り入れた。桃一小学校の校章制定年は不詳であるが、杉一小学校が校章を制定した大正期辺りであろうと推定する。あるいは昭和3(1928)年、桃二小学校や桃三小学校が同時開校した時に合わせて制定したものとも考えられる。
親学校の「桃園」という校名は、五代将軍綱吉公(犬公方)がお犬小屋を中野の地に定め、その後、八代将軍吉宗公がその跡地に桃を植樹したことに由来している。しかし、それより前から三代将軍家光公が高円寺から馬橋村にかけて鷹狩りに訪れた当時、辺り一面に桃の花が満開に咲く景色を見て、「桃園と名付けよ」と命じたという言い伝えが残っている。また馬橋村の記録には、江戸城の皮膚病治療薬として桃の葉を納めたという文書が残っていることから、この辺りが「桃野」であったことが分かる。
「桃井」の名も下井草村や上井草村の農家の庭先に桃の花が咲き乱れていたという環境があったからである。「井」は、井草川や善福寺川の清流とその水源になった地域の豊かな湧水を表している。ただ、井草地区の桃が、杉並の杉や高井戸の杉のように地場産業の資源になっていたかどうかは記録がないので分からない。
桃一小学校から分かれた桃二、桃三小学校および昭和7年開校の桃四小学校、そして昭和9年にそれまでの分教場から独立した桃五小学校の校章はすべて「桃」てあり、桃二小学校を除いて「井」を取り入れている。この地域の発展は大正11(1922)年の中央線西荻窪駅の開設とその機会を逃さず、私財をなげうって行った「内田秀五郎町長」の「井荻町耕地整理事業」と「井荻町土地区画整理事業」の賜である。
「井荻小学校」「井草中学校」「井荻中学校」「荻窪中学校」は地域の水の豊かさを水生植物の「藺草」や「荻」などを使って校章に取り入れている。
今まで訪ねてきたのは、主として終戦前に開校した学校であるが、戦後生まれの学校の校章にはどんなものがあるか調べてみた。
一つは「高井戸東小学校」の4本の杉、「若杉小学校」の3つの杉の若葉、「馬橋小学校」の2本の杉と言うように学校の地域性を生かしたデザインと親学校の数に加えて子どもたちの成長を思い、新しい学校の和と団結を願う気持ちを表した校章がある。
一つは、学校建設前の土地の様子を開校の思いに託した校章。例えば「四宮小学校」の八重桜。「永福小学校」のヤグルマソウ。「富士見丘小学校」、「富士見丘中学校」の富士山。「八成小学校」のクロ-バ-。「三谷小学校」の桃と富士山。「和泉小学校」、「和泉中学校」の湧水。「久我山小学校」の椎。「東田中学校」の稲穂。「東原中学校」の杉木立。「大宮中学校」の撫子。「高井戸中学校」の杉と神田川。
また、「松庵小学校」「松ノ木小学校」の松、「浜田山小学校」のさくら。「高円寺中学校」のさくらと杉。「向陽中学校」の向日葵。「済美養護学校」のもみじ。「荻窪小学校」のサクラソウというように地域の特徴ではなく、一つの植物をデザインして学校の進む思いを校章にした学校がある。
さらに、開校の思いを象徴的に表した校章としては「神明中学校」のペンと鳩。「宮前中学校」の蕾。「泉南中学校」の四つの輪。「松ノ木中学校」の2本のペン。「西田小学校」の三角と四角の組み合わせ。「永福南小学校」の三角形の組み合わせ。「中瀬中学校」の三本の脚と腕。その他、「阿佐ケ谷中学校」の杉の若葉。「杉森中学校」「西宮中学校」の杉。「松渓中学校」のまつぼっくりなどはこれに入ると思う。
その他「高南中学校」のように学校の地域的特徴、進学してくる小学校の数、学校の理想を一つの校章にまとめている学校もある。また、「天沼中学校」の校名のみとか、「和田中学校」「東田小学校」の「田」の文字を背景に置いた校章もある。
以上挙げた校章は前述の学校とは違って、抽象的な表現が多いといえる。未曾有の戦争を体験して、新しい出発をするという思いとか覚悟が強く表れていると思う。特に昭和22年以降の新しい学校制度の下に開校した中学校の校章にそれを感じるのである。ただ、戦時中に開校した「西田小学校」の校章は三角と四角で学校の理想を表現しているが、これは当時としては珍しいと思う。
校章を訪ねて見て杉並の地域性や歴史がとてもよく分かった。
これから、学校の統廃合などが進められることも考えられるが、学校建設の場所を求め、開校にこぎつけるまでの苦労が校章制定の裏面に隠されていることを消してはならないと思う。
さらに、これら各学校の校章に加えて、校歌を重ね合わせてみるとその思いがなお一層大切であると思った。
区立学校の開校歴年表
杉並地域の学校は当初旧4ヵ村それぞれに開校されたが、関東大震災後の急激な人口増加、それに加えて、鉄道の開通と駅の開設、さらに耕地整理事業、土地改良事業実施の時期に会わせるように増えていった事が分かる。また、杉並地域開発の波が、中央沿線から広がって行った様子もよく分かる。
●明治期の開校
旧井荻村地域 桃井第一小(桃井小) 下井草村分教場
旧杉並村地域 杉並第一小(桃野小) 杉並第二小(成田小) 杉並第三小(高円小)
旧高井戸村地域 高井戸小(郊西学校・高泉学校) 高井戸第二小 高井戸第三小
旧和田堀村地域 大宮小(大宮小・入徳小)
※( )内は、前身の学校名。また、2校名は統合する前の学校名。
●大正期の開校
旧杉並村地域 杉並第四小(高円寺原小) 杉並第五小 杉並第六小
旧和田堀村地域 新泉小
●昭和10年までの開校
旧井荻村地域 桃井第二小 桃井第三小 桃井第四小 桃井第五小
旧杉並村地域 杉並第七小 杉並第八小 杉並第九小
旧和田堀村地域 和田小 堀之内小
●昭和11年から20年までの開校
旧杉並村地域 杉並第十小 若杉小 西田小
旧高井戸村地域 高井戸第四小
旧和田堀村地域 方南小
戦後の学校建設は、新学制による中学校建設が急務であった事が分かる。その間、戦争被害を受けた小学校は、復員、引き揚げ等による児童増加が著しく、二部、三部授業を強いられていた学校もあった。しかし、小学校や私立学校などを借用して開校した新制中学校の校舎建設が急がれたのである。
そのために、小学校の増改築や学校建設には手が回らなかった。中学校建設が一段落した昭和25年から、小学校校舎建設が一気に進んだ。
この頃、農地改革によって耕地の確保(購入・借地)は、現在に比べて進めやすかったが、それでも大量の校地を確保する事は大変であった。
旧杉並町地域は、他の三地域と違って既に小学校の新規開校は、昭和25年の馬橋、東田小学校開校以来見られない。それだけ地域の人口密度が高かったという事である。
高井戸、和田堀地域も農地、空き地、野原、雑木林、社有地、河川敷等が少なくなって行ったことが分かる。
●昭和21年から24年までの開校
旧井荻村地域 井荻中 荻窪中 神明中 井草中 東原中 中瀬中
旧杉並村地域 杉森中 阿佐ヶ谷中 東田中 天沼中 高円寺中 高南中 松渓中
旧高井戸村地域 高井戸中 向陽中(設立当時、下高中) 宮前中
旧和田堀村地域 松ノ木中 大宮中 泉南中 和田中
●昭和25年から29年までの開校
旧井荻村地域 四宮小 井荻小 沓掛小 荻窪小
旧杉並村地域 東田小 馬橋小
旧高井戸村地域 松庵小 浜田山小 富士見丘小・同中
旧和田堀村地域 済美小 永福小
●昭和30年以降の開校
旧井荻村地域 八成小 三谷小
旧高井戸村地域 高井戸東小 永福南小 久我山小 西宮中
旧和田堀村地域 松ノ木小 和泉小・同中 済美養護学校
参考文献:
杉並区教育史