五日市街道は古くは伊奈道、砂川道などと呼ばれ、江戸時代は多摩地方の木炭や農産物を江戸に運ぶ道でした。この道は武蔵野台地を東西に通じるほぼ平坦な道ですが、台地を横切る善福寺川と、その両岸に広がる低地帯(田圃)を通過する尾崎(旧尾崎村)(杉並区成田西)の辺りは、その高低差を上り下りする危険を避けるため、傾斜面にジグザクの道を造ったものと思われます。それでもなお、急な坂道、直角やカーブした曲り道が多く、歩行者や荷車の通行の名だたる難所として「尾崎の七曲り」といわれた道筋でした。
いまも当時の旧道がそのまま残り、その道筋を辿れば新道開通前の地形、風景を思い画くことができ、道を拓いた先人の知恵、工夫を考えることができます。さらに道筋の寺院をはじめ、残された石仏や供養塔にこの地に住んだ古人の篤い信仰心を知ることができます。また、ここを通り過ぎた江戸の文人の紀行文や俳句などにより、当時の旧道周辺をしのぶことができます。
いまは往時の尾崎田圃は地下鉄丸の内線掘削工事(青梅街道地下)残土により埋め立てられ、善福寺川緑地となり、川の両岸の桜並木は都内有数のお花見名所として親しまれています。
この付近の新道は大正10(1921)年に路面を嵩上げして高低差を少なくし、また曲り道をショートカットして、ゆるやかな坂道とゆるやかな曲線の幹線道路に改修されました。
その後、さらに拡幅工事が行われ、平成3年には新「尾崎橋」が完成し用地買収に難航するなどしましたが、漸く平成18年に完成しました。
尾崎の七曲り略図
五日市街道は略図の左方向は馬橋おんだしで青梅街道に合し、新宿方面に向かいます。尾崎の七曲りは成田東二丁目から西に向かい左側そば屋さんの横を左の小道に入るところから始ります。道なりに進み、五日市街道(新道)を横切り白幡の坂を下り、尾崎橋を渡ります。善福寺川緑地を過ぎると直角に左折し寳昌寺の前に出ます。さらに新道を横切り進み、道角橋跡を直角に右折し新道と鎌倉街道の交差点を横切って進みます。つきあたりを斜め左折し、また新道を横切り豊多摩高校方向に進み、しばらくして右折し坂を下り、新道に合して尾崎の七曲りは終わります。角に大きな庚申塔があります。
尾崎橋際画
矢島又次さんの尾崎橋付近を画いた風景です。説明文(引用)には「此処は五日市街道が善福寺川を横切る尾崎橋際である。当時は農家の方が多くの野菜を神田市場等に出荷していた。ひととき、橋の際の飲食店にて一休みするのが楽しみであった。道はほこりが多く安藤氏は自ら考案した散水箱をリヤカーにつんで散水をなした。近くに寳昌寺、豊川稲荷、仏石や橋供養塔がある。」とあります。
この画は、道角橋近くにあった石橋供養塔が寳昌寺参道の左側に画かれていますので、新道が大正10年に完成して間もなくの風景と推定されます。
青梅街道を西に進み、旧「馬橋おんだし」を左折すると五日市街道です。すぐ大法寺前を右折すると、天気の良い日には正面に富士山が見えます。西に1.5キロメートルほど進み成田東2丁目の蕎麦屋さんの横を斜め左に入る旧道が「尾崎の七曲り」の始まりです。緩やかに右にカーブし新道(五日市街道)を横切り、米屋さんの横から下る急な坂道が「白幡の坂」です。
往時、三鷹、吉祥寺方面の農家の人々が、早朝、江戸の市場に農産物を運ぶ荷車がここを通りました。後押しのもんぺ地下足袋姿の女の人たちは、白幡の坂を押し上げると役目を果たし連れ立って帰っていったといいます。
右、崖上に白幡の庚申堂があり、三体の石仏(地蔵菩薩、馬頭観世音、地蔵菩薩)(区指定文化財)が安置されています。右側から旧道に合流する道は「馬橋みち」と呼ばれた道です。坂を下り善福寺川を尾崎橋で渡ります。いまの尾崎橋より10メートル程上流にありました。両岸は広々とした「尾崎田圃」でした。戦前、冬の北風の強い日には街道の土手から、村の若い衆が「うなり」のついた大凧を揚げていました。田圃は昭和30年代後期に地下鉄丸の内線掘削工事の残土で埋め立てられ、いまは「都立善福寺川緑地」となり人々に親しまれています。近年は尾崎橋上流の桜並木は成長し、お花見の名所として知られるようになりました。
正面の台地は尾崎の丘と呼ばれていました。杉並第二小学校が見えます。同校の校歌に「霞たなびく武蔵野の 尾崎の丘にそびゆるは・・・」と歌われています。この校歌の作詞は吉住作次郎元校長先生、作曲はすぐ隣の寳昌寺住職さんの御母堂福沢以登さんです。尾崎橋を渡り更に進み、尾崎の丘の裾を流れていた小川(もと灌漑用水路、現在下水道化、区道)につきあたり、旧家の前で直角に左折すると新道交差点(交通公園前)手前の寳昌寺参道前に出ます。
※旧家の前を右折して直ぐ左折する急坂は三年坂です。この三年坂という呼称は京都、熊本などにあるそうですが区内ではこの坂が唯一です。三年坂の共通の伝承は「この坂で転ぶと三年のうちに死ぬ」などというものですが、「この急坂の上り下りには用心しなさい」という警めであると思われます。この坂道は旧道より更に古い古道であるかとも云われています。
旧道の右側、旧道に正対して参道、石段のある古刹「曹洞宗白龍山寳昌寺」があります。当寺は文禄3(1594)年中野成願寺五世葉山宗朔により開創されました。その前は真言宗の古寺であったと伝えられています。ご本尊は江戸時代作の釈迦牟尼如来坐像です。位牌堂には室町時代作の大日如来坐像(区指定文化財)が安置されています。江戸時代の寳昌寺は旧成宗村の檀那寺として村人に信仰され、また村内の熊野・須賀・白山神社の別当寺でした。
境内には区内最古といわれる地蔵菩薩立像寛文3(1663)年銘、青面金剛立像元禄3(1690)年銘 など石仏6体が保存され、いずれも区指定文化財です。板碑も正和3(1314)年銘はじめ多数が保存されています。
境内の豊川稲荷は災難消除と五穀豊穣を祈願して愛知県豊川本閣から勧請したものです。
また、参道入口には、元道角橋付近にあった石橋供養塔が移され建っています。正面に「石橋供養 十方村々」 右面「東江戸道」 左面「長新田道」と刻まれています。石橋の完成、交通安全供養と道標をかねていたものです。
往時の寳昌寺は小高い深遠な森に囲まれた、人々の信仰をあつめたお寺さんであったと思われます。
北側100m程さきに尾崎熊野神社があります。縄文時代の遺跡があり、境内には樹齢400~500年と推定される区指定天然記念物「クロマツ」が聳えています。
旧道は寳昌寺の前を通り、新道を横切り約70メートルほど進み、旧小川を直角に右折し渡る橋が道角橋でした。この石橋の欄干(約3メートル)は周辺の埋立て工事以来、行方不明でしたが後程、片側が善福寺川緑地で発見され尾崎熊野神社境内に保存されています。橋を渡り坂道の途中に寳昌寺参道に保存されている石橋供養塔が建っていました。当時は西の台地から尾崎田圃の低地に下る坂道で、道角橋を渡ると直ぐ直角に右折するという、とくに荷車などの通行には要注意場所だったのでしょう。坂を上り「すぎまるバス」の通る鎌倉街道と新道と旧道の交差点を過ぎ、児童館横を斜め右に進みます。
この付近の情景について「玉花勝賢」(俳人露安有佐の案内書(文化元年))には
「ここに至りて尾上屋という店あり、酒、飴、おこしようのもの売る。之家のむかい大宮八幡の森見ゆる。
若芝や我を忘れて肘まくら 有佐
青畑やちらりと見ゆるきじのかお 由儀」 とあります。
目を閉じれば当時のこのあたりの様子がしのばれます。
成田西郵便局の昔の屋号は「店」とよばれていました。かっての尾上屋の名残と思われます。
つきあたりの旧家の前を直角に左折し、新道を越えて豊多摩高校方向に進むと右手に稲荷神社があります。なお、しばらくし進み左折し坂を下ると新道に合流します。出口右手に大きな宝永5(1708)年銘の庚申塔があります。ここで、無事、難所「尾崎の七曲り」が終わります。
※途中の稲荷神社の先を右折し新道を渡ると左側に松林寺日性寺墓地があります。もとは全福寺という寺があり、松林寺に合併されたものです。さらに全福寺より以前に日性寺という寺があり、これが旧字名「日性寺」となったようです。
歴史の道調査報告書第1集 五日市街道 東京都教育委員会
すぎなみの散歩道 杉並区教育委員会
杉並区の登録文化 杉並区教育委員会
文化財説明板 杉並区教育委員会
杉並区の歴史 杉並郷土史会
尾崎史 尾崎熊野神社