大宮八幡宮や郷土博物館からも至近の静かな住宅地にある株式会社アイネットホールディングス(以下アイネット)は、1946(昭和21)年に東高円寺で菓子問屋として創業して以来、杉並区に根を張り、成長し続けてきた菓子会社だ。「なみすけゴーフレット」の製造メーカーでもある。社長の小黒敏行氏を訪ね、話を伺った。
小黒氏の経歴は少し変わっている。大学で専攻したのは化学。卒業後は大学での専攻を生かし医療品会社に就職した。だが就職後、思うところがありその会社を退職する。そして選んだ就職先が、父の叔父である小黒健次氏が経営していた菓子問屋、株式会社フタバ(以下フタバ)である。この会社が現在のアイネットの元となる会社だ。「フタバに入社したのは33歳の時。二十歳そこそこの先輩社員からこの業界での仕事のノウハウを一から教わりました。前職では内勤がほとんどでしたが、フタバでは営業職。業界が変わっただけでなく、毎日取引先を訪ねる外回りの仕事になったことも大きな変化でした。」と淡々と話す。それは並大抵の苦労ではなかっただろうと思う。小黒氏には強靭な精神力が備わっているのだろう。
社長就任から順調に成長した会社だったが、2011年の東日本大震災では大きな打撃を受けた。
「震災当日、私は東北工場でお客様を案内していました。東北工場は震災で大きな被害が出た宮城県栗原市の隣の古川にあります。地震発生時は、もうあまりにも激しい揺れで、何が起こったのかまったくわからず、ただただ机の下に潜って震えていました。女子従業員のきゃあきゃあ叫ぶ声にも助けてあげることもできなくて、もう生きた心地がしなかった。」
東北工場は山手にあったため津波の被害からは免れたが、しばらくは操業できなかった。また、当時は中国に出店していたが、震災以降、東日本で製造された商品はまったく売れなくなってしまった。そんな状況下でも、被災した方に少しでも元気を出してもらえるようにと、できる限りの菓子を支援物資として提供した。
「東北工場の復興もありましたし、会社のことで精一杯だったので被災地の避難所を訪ねることはできませんでしたが、テレビの映像などで被災した方がお菓子を食べる姿を見て、お菓子が一つあるだけでコミュニケーションができるようになる、ホッとする、そんなお菓子の持つ力を確信しました。」
小黒氏自身も菓子をよく食べるという。社内でいくらでも調達できる環境だが、敢えて店で購入する。「商品の陳列や、どの商品が流行っているなど、変化に気づくことが重要です。」
好きな言葉をお伺いしたところ、創業者、小黒健次氏が1965年に言われた「変化に挑戦しうる人たれ」だと教えてくれた。50年近く経つ今でも、その言葉は色褪せない。
そんな小黒氏が今どんなことに挑戦されているかをお聞きすると、まずは改めての海外進出。東南アジアがターゲットだ。「日本のお菓子は種類が多いし美味しい。海外でも人気があります。日本のお菓子をもっと世界中に広めたい。日本のお菓子の未来は明るいです。」
仕事以外では、海外進出のための視察などで訪れるフィリピンで、NGOメンバーとともに、現地の看護師を日本に送るための支援をしている。「フィリピンでは日本で働きたいという看護師がたくさんいます。彼らが日本で看護師の資格を取るために苦労しているのは、試験。彼らは割と日本語を話せるんですが、読み書きが苦手。試験は読み書きができないと受からない。だから、少しでも彼らの役に立ちたいと思い、日本語の読み書きができるようになるような支援をしています。」さらに、「2015年の東京マラソンの出場権が当選したんです。以前、ハーフマラソンに出た時には2時間ほどで走れたので、4時間半ぐらいを目標にして完走したいですね。」と意気込みを語ってくれた。
様々な困難を乗り越え、仕事でもプライベートでも挑戦をし続ける小黒氏。杉並生まれの菓子「なみすけゴーフレット」が世界中で食べられる日もそう遠くなさそうだ。
取材を終えて
始終静かに語られる小黒氏だが、世の中の変化を敏感に捉える鋭い感覚と秘めた熱意がある方だと感じた。インタビューで会社を訪ねた際、すれ違った社員が気持ちよく挨拶してくれる。社長のリーダーシップのもと、社員一丸となって変化に挑戦し続けている会社だという印象が深く残った。また、小黒さんは自宅から近い善福寺川沿いで、毎日10kmほど走り東京マラソン出場に備えているという。そんなオンとオフの切替も、成功へのキーの一つなのかもしれない。
小黒敏行 プロフィール
1953年生まれ。1978年青山学院大学理工学部研究科修了後、小林香料株式会社へ入社。1985年4月株式会社フタバ(現在のアイネット)入社。1998年2月株式会社アイネット代表取締役社長に就任。2010年株式会社アイネットホールディングス設立。代表取締役社長を兼任。