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田河水泡さん

「のらくろ」出生秘話

「私はのら犬の黒、つまりのらくろというものです。兵隊に入って大いに活躍したいのです。入れてもらえますか」
1931(昭和6)年、『少年倶楽部』新年号で『のらくろ二等卒』として産声をあげた「のらくろ」。作者は田河水泡(たがわすいほう 以下、田河)、32歳の時であった。
田河は、1899(明治32)年、東京市本所区林町(現・東京都墨田区立川)に生まれた。本名は髙見澤仲太郎(たかみざわなかたろう)。わずか1歳の時に母が他界、2歳のときに父が再婚したため、伯母夫婦に預けられる。伯父は近隣の大家として豊かな暮らしをしており恵まれた環境であったが、実の親の温もりを感じることなく過ごした幼少期の孤独感は、「のらくろ」を生み出す背景の1つになった。
構ってくれる人のない野良犬が、どんなに辛い境遇でも「なにクソ!」という負けじ魂を失わずに自分の生きる道を切り開いていけば、最後には将校にまでもなれる。そんな、弱い立場の者に対する田河の愛は、当時の子供たちの心を強く揺さぶり、何よりの心の支えになっていた。田河はこう語る。「のらくろの種をまいたのは私だが、立派にずっと育ててくれたのは、読者だよ。」(『のらくろ一代記』より)

「のらくろ」グッズを抱く田河水泡(『のらくろ先生の観葉植物』表紙より ©田河水泡・鶴書房)

「のらくろ」グッズを抱く田河水泡(『のらくろ先生の観葉植物』表紙より ©田河水泡・鶴書房)

復刻版のらくろシリーズNo4 『のらくろ新品伍長』 昭和38年12月 (町田市民文学館所蔵)

復刻版のらくろシリーズNo4 『のらくろ新品伍長』 昭和38年12月 (町田市民文学館所蔵)

漫画家「田河水泡」の始まり

1919(大正8)年、田河は徴兵され陸軍第一師団三連隊に仮入営。翌年、朝鮮の羅南、歩兵第七三連隊に入営し、同年除隊する。田河は「兵営生活はいやだった」と後に語っているが、この時の新兵としてのへま、しくじり体験が、「のらくろ」大活躍の原動力となった。
1921(大正10)年に除隊後は日本美術学校に入学、画家としての道を歩みはじめる。卒業後に図案の仕事を始めるものの、それだけでは食べていけないからと書き始めた新作落語が人気を博した。その後、新作落語作家として関係のあった雑誌社から漫画を描いてみないかと勧められ、1928(昭和3)年、「目玉のチビちゃん」という子ども向けの連載漫画でいよいよ漫画家としての一歩を踏み出した。
漫画家としての筆名は、本名が髙見澤であることから「田河水泡」と書いて「たかみずあわ」とした。だが「たがわすいほう」とばかり呼ばれるので、本人も訂正するのが面倒臭くなってそう読ませることにしたという。
1933(昭和8)年、田河は荻窪に新居を構えた。そこで描かれた「のらくろ」はさらに飛躍を遂げ、空前のブームが巻き起こる。街には「のらくろ」をあしらった飴、鉛筆、かばん、ハンカチ、靴、時計…、ありとあらゆるグッズがあふれかえった。1969(昭和44)年には町田市に転居したが、それまでの38年間「のらくろ」はこの杉並で成長し続けた。

「のらくろ」が世に第一歩を踏み出した『のらくろ二等卒』(©田河水泡・講談社)

「のらくろ」が世に第一歩を踏み出した『のらくろ二等卒』(©田河水泡・講談社)

山あり谷ありの杉並時代

田河が都心から離れた荻窪に住んだのには理由がある。広い庭で趣味の園芸を楽しみたかったのだ。田河の書斎は庭と面しており、いつでも出られるようになっていた。
このころ、田河のもとには弟子入りを希望する多くの青年が訪れていた。型にはまることを嫌った田河は、弟子に漫画の描き方を具体的に教えることはなかったが、見込んだ弟子には仕事先を次々と紹介した。『サザエさん』の作者、長谷川町子さんも、当時の弟子の1人である。
「のらくろ」シリーズの人気で田河の仕事は多忙を極めていたが、家族には疲れた様子をまったく見せなかったという。弟子と寄席を見に行ったり、一緒に飲みに行ったりと、忙しさの中にもいつも楽しみを見つけていた。田河の長男である髙見澤邦郎(くにお)さんは、時に酒を飲み過ぎて帰ってくる父の姿を懐古し、「母にだいぶ怒られていましたね、翌朝はしゅんとしていましたよ。」と語る。また、邦郎さんが幼いころには近所の善福寺川へよく一緒に散歩に出かけたそうだ。「当時の親子は皆そうだったのではないかな。」という邦郎さんの言葉から、普通の父親としての田河の一面がうかがえた。
連載開始から11年間、「のらくろ」シリーズの人気は衰え知らずであった。しかし太平洋戦争が勃発。紙の節約が必要な時代に「のらくろ」人気のために連載誌の発行が多すぎるという理由で、1941(昭和16)年に執筆禁止令が出される。生活のための仕事探しに奔走する日々が続いても、田河は「江戸っ子だから」とくよくよせず家族に対して明るく振る舞っていたとのこと。そして戦後、漫画家として復帰。1958(昭和33)年、『のらくろ自叙伝』の連載をきっかけに、約17年の歳月を経て「のらくろ」のリバイバルブームが起こった。田河は杉並の地で、山あり谷ありの時代を「のらくろ」と共にたくましく生き抜いたのである。

1949(昭和24)年7月、荻外荘付近善福寺川にて

1949(昭和24)年7月、荻外荘付近善福寺川にて

2010(平成22)年 杉並区立郷土博物館分館企画展「のらくろみーつけた!-田河水泡の杉並時代-」展示図録表紙より

2010(平成22)年 杉並区立郷土博物館分館企画展「のらくろみーつけた!-田河水泡の杉並時代-」展示図録表紙より

邦郎さんに聞く、田河水泡の素顔

邦郎さんは、「頭で考えるよりも、とにかく何でもやってみる人でした。」と父を語る。52歳から銅版画を始めたり、趣味の園芸が嵩(こう)じて観葉植物の本を出したり、田河は興味を持ったことは積極的に行動に移す人だった。育ての親である伯父が南画(※1)や植木を好んだことからの影響もあるようだ。
また、田河は初め、子供向けの仕事に乗り気ではなかったという。「画家になるか、漫画であれば大人向けの風刺画を描きたいと思っていたから、子供の漫画を描くのはイヤだった、と言っていました」。それでも「『少年倶楽部』の当時の編集長・加藤謙一さんや編集者になだめすかされて描いているうちに、『のらくろ』がブームになってしまいました」。やがて子供たちから身寄りのない「のらくろ」宛てにいたわりの手紙が届くようになり、田河は抵抗のあったこの仕事に大きな価値を見出したようだ。
田河が成功した理由について、邦郎さんは次のように語る。「まず絵の才能がありました。その才能を、ブームとなった『のらくろ』に結び付けるという運をつかむ力もありました。もちろん努力もありましたが、才能があったがゆえに、努力が才能に覆い隠されてしまい、人には見えづらかったかもしれません。」また、楽天的な性格でもあったそうだ。“自分ではどうにもならないことを悩んでも仕方がない”といった考えに加え、何でもやってみるという姿勢が、自分の意に反して子供向け漫画を描く逆境とも言える状況を結果に結びつけたのであろう。田河自身も晩年、次のように語っている。「自分の人生を振り返ってみるたびに、私は『人間万事塞翁が馬(※2)』という言葉を思い出す。(中略)いろいろ総合してみると、無駄な体験を積み重ねながら、私という人間が作られてきたのだとも言えそうだ。」(『私の履歴書 芸術家の独創』より)

※1 南画(なんが):江戸中期以降、中国の南宗画の影響のもとに独自の様式を追求した新興の画派の作品

※2 人間万事塞翁が馬:人間の幸不幸は予測できないというたとえ。中国の故事にちなむ

父、田河について語る髙見澤邦郎さん

父、田河について語る髙見澤邦郎さん

下高井戸の自宅に併設した温室ですごす田河

下高井戸の自宅に併設した温室ですごす田河

「のらくろ」だけにとどまらない

漫画「のらくろ」シリーズの作者として注目されることの多い田河であるが、彼の幅広い才能はそれだけに留まらない。青年期には抽象画や新作落語、晩年には銅版画や園芸書などの分野でも多くの作品を残している。過去に行われた田河関連の展覧会と、現在も作品を見ることができる常設展示を一部紹介しよう。
2010(平成22)年、杉並区立郷土博物館分館で「のらくろみーつけた!−田河水泡の杉並時代−」展が開催された。展示内容は、荻窪及び下高井戸の自宅での写真や、当時の漫画家たちとの交流についての資料など。この時の展示図録は博物館で購入できる。
また、晩年を過ごした町田市では、1999(平成11)年に市立博物館にて「のらくろ田河水泡−生誕百年記念」展、2013(平成25)年に町田市民文学館ことばらんどで「滑稽とペーソス‐田河水泡“のらくろ”一代記」展が開催された。
また、田河は幼少期から青年期を江東区で過ごしているが、江東区森下文化センター内に「田河水泡・のらくろ館」がある。ここでは「のらくろ」シリーズの初版本や原画、田河の書斎机や画材道具等の貴重な資料が常設展示され、随時企画展が行われている。(平成28年7月31日まで改装工事のため休館中)
「のらくろ」誕生前から晩年まで、生涯に渡る作品に触れたとき、田河の知られざる才能に驚かされるに違いない。作品が残るゆかりの地を訪ねてみてはいかがだろうか。


田河水泡 プロフィール
本名・髙見澤仲太郎。1899年2月10日、東京市本所区林町(現・東京都墨田区立川)に生まれる。
1928年「目玉のチビちゃん」で漫画家デビュー
1931年 『少年倶楽部』で「のらくろ二等卒」の連載開始
1933年 杉並区の荻窪に住居を構える。後に下高井戸に転居
1958年 雑誌『丸』で「のらくろ自叙伝」連載開始
1969年 紫綬褒章受章。町田市の玉川学園に移住
1987年 勲四等旭日小綬章受章
1989年 12月12日没、享年90歳

<協力>
髙見澤邦郎さん(首都大学東京名誉教授・まちづくりプランナー)
※田河水泡の写真は高見澤邦郎さんの提供による

絵はがき(森下文化センターで取扱いのあるグッズの一部)

絵はがき(森下文化センターで取扱いのあるグッズの一部)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『のらくろひとりぼっち 夫・田河水泡と共に歩んで』髙見澤潤子(光人社)
    『のらくろ50周年記念アルバム ぼくの のらくろ』田河水泡ほか(株式会社講談社)
    『のらくろ 田河水泡生誕百年記念』町田市立博物館(町田市立博物館)
    『私の履歴書 芸術家の独創』田河水泡 ほか(日本経済新聞出版社)
    『田河水泡 のらくろ一代記』田河水泡、髙見澤潤子(日本図書センター)
    『のらくろみーつけた!田河水泡の杉並時代』(杉並区立郷土博物館分館)

  • 取材:杉山 惠一 高円人 山下 由美子(区民ライター講座実習記事)
  • 撮影:杉山 惠一 写真提供:高見澤邦郎さん
  • 掲載日:2015年11月02日