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増山白舟さん

仏師の仕事

阿佐谷の閑静な住宅街に珍しい看板を出した家がある。
「仏像彫刻教室 微笑庵」
女性仏師・増山白舟(はくしゅう)さんのアトリエ兼教室である。
教室を見学に伺うと、生徒たちが車座になり、黙々と彫刻刀を動かしている。その間を動き回り、1人1人に「どう?うまくいってる?」と声をかけながら指導しているのが増山さんだ。作務衣を着て、一見近寄りがたい雰囲気であるが、生徒にかける声は優しい。みんなどこか楽しそうに彫っており、なんとも居心地のよい空間で、見学していた2時間余りがあっという間に過ぎてしまった。
部屋の片隅には増山さんの彫った仏像が置かれている。
「仏像は立体の経典なので、いろんな約束事を知ってなくてはいけません。仏様によって衣紋(装束)の形や印の結び方(手の形)が決まっているし、手に持つ蓮華の花にしても蕾や咲いているもの、花びらが1枚だけ開いているものもあります。宗派によっても違いますし、そういうことをわかってなくてはいけないのが仏師の仕事です。注文はお寺で新しいお堂を建てるとか、檀家さんから寄進を受けたので新しい仏像がほしいとか、それなりにありますが多くはありません。コンスタントに数年先まで仕事が入っている仏師は少ないでしょう。独立したけど食べられなくて、フィギュアの世界に入った人もいると聞きました。私は幸せなことに、なくならない程度に仕事はありますね。」

増山白舟さん

増山白舟さん

母親が施主となった微笑庵(みしょうあん)の御本尊、地蔵菩薩

母親が施主となった微笑庵(みしょうあん)の御本尊、地蔵菩薩

桐塑人形から仏像へ

増山さんが仏像に出会ったのは27歳の頃。大学卒業後の6年間、伝統工芸の桐塑人形(※)を学んだものの「何か違う」と感じていた。そんな折、偶然立ち寄った本屋で『仏像彫刻のすすめ』(松久朋琳著)を見つけ、「これだ!」とひらめき、その足で中野の仏像教室に入会。後の師匠となる服部俊慶氏の生徒となる。
図らずも桐塑人形で学んだことが役に立ち、入会から7ヶ月で地蔵仏頭を、次の1年で5尺の観音仏頭を彫る実力になった。「それまで、そんなの彫らせてもらえる人はいなかったので、古くから通う男の生徒さんたちにやっかまれました。」
3年後、服部氏が三重県の山奥に佛所(工房)を構えることとなり、兄弟子2人と仏画志望の女性と4人で内弟子に入る。1987(昭和62)年当時、女性の仏師はほとんどいなかったという。そんな中、修行に出ることとなり、家族の心配といったらいかばかりであったか。
「一人前になるまで絶対、家には戻らないつもりだったので、私も親も出家するのと同じ覚悟でした。母は手放したくなかったと思います。でも、私も若かったし、それしか見えなかったので、がむしゃらに飛び込んでいってしまいました。」

※桐塑人形(とうそにんぎょう):桐(きり)のおがくずに生麩糊(しょうふのり)を加えて練り固めたものを型に入れて抜き、乾燥させたのち彩色して仕上げた人形。(『日本大百科全書』より)

日本手工芸美術展で東京都知事賞を受賞した桐塑人形

日本手工芸美術展で東京都知事賞を受賞した桐塑人形

生徒時代に彫った聖観音の仏頭

生徒時代に彫った聖観音の仏頭

修行時代

「彫れる自分を作り上げていくのが修行時代」だと言う増山さん。
「仕事はお金をいただくものなので、修行の身では彫れません。できることは師匠や兄弟子たちの仕事の準備をしたり、掃除や雑用ぐらい。そのうち、人の動きや仕事の流れが分かってくると、仕事をする心構えができてくる。それを師匠は見てくれているんです。最初にもらった仕事は愛染明王の頭に載っている獅子冠でした。3センチくらいで、すごく小さくて、しかも、ほとんど形ができあがっているものを“これ仕上げろや”って。どうすればいいかわからなくて、手も足も出ない。それでもなんとかしなくちゃいけない。そうすると、最初は漠然としか見えなかったのが、一箇所、木屑が残っているのが見えてくる。一度刀が入ると、ここの彫りをもう少し深くしようとか、だんだん自分の焦点が絞れてくるんです。彫るのに3日くらいかかりました。」
仏像を彫るには、まず四角い木に図面を描き、要らないところを取って(彫って)いく。すると不思議なくらいに手や足が姿を現し、仏様が彫り出されてゆく。仕上げはヤスリではなく、彫刻刀だけで削り上げる。1体作るのに1年以上かかるという。
「私は内弟子に入ったのが遅かったので苦労しました。若い人は朝から晩まで彫っているうちに体が無条件に反応して彫れるようになっていくけど、私は頭で考えてしまう。理論立てて、自分なりに正しく彫る方法を見つけるまでにものすごく時間がかかりました。」

要らないところを取っていくと形が出てくる仏頭

要らないところを取っていくと形が出てくる仏頭

増山さん作の阿弥陀如来像

増山さん作の阿弥陀如来像

誰もが仏像を彫り出せる喜び

1991(平成3)年、3年半の修行の後、独立。しかし、ただ待っていても仕事がくるわけでもない。1年間に10体の仏像を彫って展覧会を開き、友人知人に近況を知らせた。仏師としての最初の仕事は桐塑人形時代の友人からの依頼だった。「“あなたに彫ってもらおうと待ってた”って。縁ですね。」
教室を始めたのも同じ頃。最初は生徒3名からスタートした。修行中や仕事において、女性であることでの苦労はあまり感じなかったが、教室では露骨に嫌な顔をする人もいたと言う。「最初は生徒さんが全員私より年上でしたし、それこそ、仏師と言ったら高齢でひげを生やした男性のイメージがあるのでしょう。数年通っている男性が最近になって、“教室に通い始めて1か月間ずっと、初心者には奥さんが教えはるんやと思っていた”と告白したので、みんなで大笑いしました。」
現在、生徒は65人。老若男女、仕事も経歴もさまざま、中には3時間かけて通っている人もいる。
「修行中に正しく彫れる方法を見つけたことが、教える時に役立ちました。普通の教室では、先生に“これと同じに彫れよ”と言われますが、彫れないんです。私はそれが疑問で、教えるってそういうことなんだろうか、正しい理論があって、誰でも彫れる、それが教えるってことじゃないかって。私の指導法はシンプルで合理的です。1本の四角い木から仏像を彫り出すためには、不要な部分を見極めて少しずつ取り去る。的確に順を追っていくと、形は明確に現れてくるのです。だから、面白い。生徒さん1人1人に彫れるようになっていく喜びを確実に感じてもらうことができます。」

仏像彫刻教室の様子

仏像彫刻教室の様子

いくつもの彫刻刀を使う

いくつもの彫刻刀を使う

仏様の懐に抱かれて生きる

「教室はすごく楽しいし、教えるのもとても好きです。天職だと思う。でも、自分が彫るのはもっと好き。」と言う増山さん。
「私は常に精神的な成熟度を求め続けてきたので、きっと死ぬ瞬間までよりよいものを求め続けていくんだろうと思います。そういう生き方が仏師の仕事とシンクロしている。例えば“なぜ仏像なんだ”、“仏像とどう向き合うのか”と自分に問いかけ続けることができるので、最高だと思う。自分で決めたというより、水が流れるように自然にこの世界に導かれた気がします。きっと、仏様は私がどうしようもない人間だから“放っておいたらロクなものにならない。崩れてしまわないように、自分の側においておこう”と、この世界においてくださったような気がします。全ては大きな計らいの中、今は本当に仏様の懐に抱かれて生きる幸せを感じています。」

取材を終えて
下井草にある生楽寺に、増山さんの彫った釈迦如来像があると聞き、拝観に行った。1993(平成5)年に安置されて22年、白木が色づいて風格が出てきたようだ。面立ちがどこか増山さんに似ているような気がする。お釈迦様に手を合わせ、「私は増山白舟という人物を掘り出せただろうか」と問うてみる。何も言われずとも答えはそこにある。お釈迦様が少し微笑まれたような気がした。

増山白舟プロフィール
1954年、東京都文京区出身。10歳の時、阿佐谷に転居。実家は駅前で甘味店を経営。1976年、東京女子大学を卒業後、10歳から続けていたクラシックギターを諦め、上妻悦子氏に桐塑人形を師事。1984年、仏像彫刻を服部俊慶氏、那花定慶氏に学ぶ。1987年、服部俊慶氏の内弟子となる。1989年に独立し、阿佐谷へ。1991年、第1回作品展開催、仏像彫刻教室を始める。真言宗醍醐派二七山不動院関修験三宝宗務所にて得度。2012年より、東日本大震災の被災地に仏像と展覧会での売上を義援金として届けている。

【主要作品】
生楽寺(杉並区) :釈迦如来  
龍谷寺(八王子市):弥勒菩薩
無碍光院(京都市):聖観音、誕生仏  
円慶寺(横浜市) :金剛界、胎蔵界大日如来 他

生楽寺の釈迦如来

生楽寺の釈迦如来

DATA

  • 住所:杉並区阿佐谷南2-11-32
  • 最寄駅: 南阿佐ケ谷(東京メトロ丸ノ内線)  阿佐ケ谷(JR中央線/総武線) 
  • 公式ホームページ(外部リンク):http://www.mishoan.jp/
  • 出典・参考文献:

    『日本大百科全書』(小学館)

  • 取材:坂田
  • 撮影:坂田
  • 掲載日:2015年08月03日