西荻窪、通称“西荻”――ここでは「やり過ぎることが突き抜ける道なんです。」と、詩人の田中庸介さんは言う。「アートな心をそそる街、やり過ぎることが境界を突破し、すごい結果を生むバロック(※1)な街。」そういう田中さん自身も詩人であり、細胞生物学者であり、西荻の街おこしに取り組んできた“やり過ぎ”の人。「“出過ぎた杭は打たれない”というのが西荻の仲間たちの理想で、お互いの“やり過ぎ”を街の仲間たちが心から応援しあうから、西荻は住みやすい。」
田中さんは1歳8カ月のとき、すでに数百の漢字を覚えていたことで、全国紙に取り上げられた。ベビーカーから見える近所の表札の漢字に何でも興味を示した幼い田中さんを、編集者だった母親は知り合いの石井勲博士(※2)の助言もあって、自作の漢字カードで自由に遊ばせたらしい。漢字の図柄が田中さんの右脳を育てたのか、田中さんの守備範囲は実に広い。詩の理論を組み上げ、勤務先の大学院で細胞生物学の論文を書くかたわら、短歌、美術、演劇、アウトドアなどについてメディアで発言・執筆している。「学生が喜ぶから、素人ピアノも年1回披露していますよ。」そんな“やり過ぎ”の人と西荻との関わりから、いったいなにが見えてくるのか。
※1 バロック:16世紀末から17世紀にかけてヨーロッパで広まった美術・文化の様式。過剰なまでの力強さ、ダイナミックさなどが特徴
※2 石井勲:教育学博士。豊富な教育実践から独自の漢字教育法を発表。幼稚園等で大きな成果を上げている(1919-2004)
田中さんが詩作に手を染めたのは高校2年生のとき。『現代詩手帖』や『ユリイカ』などの詩の総合誌に投稿し始め、1988(昭和63)年、「ユリイカの新人」としてデビューした。映画評論家で詩人の飯島正さん(※3)の影響もあったが、「言葉のアイデアを発表するのが楽しくてしょうがなかった。」と言う。その翌年、詩のリトルマガジン『妃 kisaki』(※4)を仲間の詩人たちと創刊。「なにより詩に新しい力をよみがえらせたかった。詩も科学も“わけのわからないものとの闘い” (田中さんが2002年に書いた詩のタイトル)であるべき。世界中の誰も試みなかった難しいことを存分にやってやろうと思う人が、もっと出てきて欲しい。」と田中さん。
そういう欲望こそ、田中さんの言う「人間が人間らしく生きる本質」だ。田中さんは、「詩の芸術性のありかが人間性の追究にあることを確認し直すこと(=再人間化)」をしようと長く発言してきた。「いま東日本大震災をきっかけにその傾向はどんどん強くなってきています。もちろん、そこではリズムを変化させたり、方言や外国語を使ったり、いろいろな引用を試みたりと、言葉の実験も自然と必要になります。でも、言葉の実験だけが詩の最終目的では、もったいないんです。」と田中さんは言う。
※3 飯島正:田中さん宅に同居していた親類のモダニズムの詩人。ヌーヴェルヴァーグを初めて日本に紹介するなど、映画評論・演劇学の研究で著名(1902-1996)
※4 『妃 kisaki』:詩人の管啓次郎さん、鈴木ユリイカさんらと共に年1回のペースで刊行。オンライン書店などで入手可能
『妃 kisaki』17号(2015年10月)から、田中さんの「富士五湖の夏」を読んでみよう。リズムにのった音楽的な文体で書かれているからとても読みやすい。大学での超多忙な毎日から逃れるべく“何もしない”と決め、過した富士五湖での時間が150行ほどの詩になっている。非日常を探し求める田中さん夫妻を待っていたのは、つつましやかな自然と深い休息だった。
ぜひ原詩を読むことをおすすめしたい(出だしの2連は写真上を参照)。
富士五湖の夏(抜粋、“/”は改行)
「あらゆるサービスと気遣いの日々。/むりやり巻き込まれた闘争の日々。」「それがひっきりなしに十数年、心が荒んで/(これはついていけない)/赤信号が点った。」
「食っちゃ寝、食っちゃ寝をしながら/時が過ぎた。/ワイマックスが入らないからメールはすべて無視。/SNSにも書き込めない。/雲が驟雨を落として、また去って行った。/全天を恐ろしい勢いで雲が流れた。」
「ちょっぴり/寒くなってきちゃったけど、新鮮な牛乳、おいしいよ、/飲むヨーグルトもおいしいよ、ほうら、こうやってちょっと振って、/あれ、もっとしっかり振らないとね、しっかりしっかり振りますよ、/どうですか、いかがですか、飲むヨーグルト、」
エンディング――
「そして見たこともない美しい花、/ぼくの夢の中の道すがら、まるで/何もなかったかのように/それをおだやかに/静かに/通り越していく」
詩を最後まで読むと、作者の言いたいことがおぼろげに見えてくる。「まるで/何もなかったかのように」は何かが起こったという暗示だが、そこは読者の自由な鑑賞に委ねられる。心のしこりを解きほぐすべく、「全力で《何もしない》に身体をまかせきる/《何もしない》に心をゆだねる/世話してもらおう、《何もしない》に!」。普通は迷ったり何かにすがったりするところ、真逆の発想だ。
(なお、「《何もしない》」の正しい表記は原詩引用を参照)
西荻の商店街イベント、チャサンポーをご存じだろうか? 田中さんもコンセプト作りに関わったこのイベントの正式名称は「西荻茶散歩」。デザイナーの國時誠さんを中心に実行委員会が組織され、毎年6月第1週の土・日に行われる。アイコン(“チャ”の文字が入ったやかん)を掲げた参加店が無料で来店客に湯茶接待を行うのがルール。4店でスタートした参加店舗は年を追うごとに増加、7回目(2015年)には100店舗を超え、鳥取県米子市でも同時に開催した。特筆すべきは公的助成ゼロ。参加店は数千円の参加費(マップの印刷代)を払えば“チャ”のアイコンをいくら使って商品を作ってもOKとのこと。
「またたく間に参加店主たちのアートの表現力が解き放たれた。郵便局が“チャ”のアイコンの記念切手を発行。雑貨店、陶芸工房の店主たちも競ってチャサンポー限定の商品を開発、飛ぶような勢いで売れていったのです。結果、参加費をはるかに上回る売上に加え、数々の人間ドラマが生まれました。」と田中さん。西荻の取り組みはチャサンポーだけではない。「私設“西荻案内所”の開所、西荻案内音頭の制作、街頭での西荻結婚式や西荻夕市、そして2016(平成28)年の西荻ラバーズフェスなど“やり過ぎ”の西荻の街の仲間たちによるイベント群が怒涛のように生まれ、雑誌にも数多く取り上げられ、スタイリッシュな新店が続々開店する好循環に恵まれたんです。」と田中さんは言う。
田中さんはチャサンポーにどのような関わり方をしたのだろうか?
西荻の商店街でもいつからかシャッターが下りたままの店舗が増えてきた。この事態に、西荻周辺で育った杉並っ子の田中さんは、クリエイター仲間や商店主たち(後に奥さんとなる史子さんもいた)と街おこしについてたびたび議論した。「僕は、商店の人たち自身がもっと街を楽しめば、それがお客さんの気持ちとつながり、街の活気を呼び込むはずだと主張したんです。そして、全国の街で野点(のだて)パフォーマンスを行う、きむらとしろうじんじんさん(※5)の話をした。すると國時さんがチャサンポーのアイデアを出してくれて、これはいいと大賛成したわけなんです」。全員のベクトルがそろった瞬間だ。
「“詩は文学の王”とは文豪サマセット・モームの言葉。ヨーロッパでは詩人は文化活動の中心的な存在です。西荻もこの数年で詩的な場所に生まれ変わりました。 詩的というのは、単に人をすてきな気持ちにさせることではなくて、気持ちの流れを解き放つこと。すると気持ちがぐんぐん流れ始め、新しい関係性が生まれます。お客さんはこの街を好きなように回って、気持ちのエネルギーを取り出していく。つまり、この街全体が詩的なエネルギーの発電機になるんです。」
詩人の役割について田中さんはこう締めくくった。「詩人は編集者に似ています。チャサンポーで僕がやったことは、西荻のみなさんの気持ちに水門を見つけ、“関係性の美学”という現代アートの力でそれを開いたこと。後は水流がひとりでに田畑をうるおし、豊かに実りました。」
※5 きむらとしろうじんじん:現代美術家。1995(平成7)年からリヤカーに陶芸窯と素焼きの茶碗・抹茶セットを積んで、参加者らが絵付けした茶碗をその場で焼き上げ、一緒にお茶を楽しむ「野点」を行う(1967-)
取材を終えて
同時代の現象にポエトリー・リーディング(朗読)を通じて発言したり、ライブで他のアーティストとコラボするなど、田中さんの詩人活動は実に多方面だ。それが地元西荻窪の街おこしを刺激し、人々を詩のスピリットで巻き込み、街を詩的な場所に変えつつある。これはエキサイティング!
田中庸介 プロフィール
1969年、東京生まれ。
細胞生物学者・詩人。海外の学術誌『Cell』などに多数の研究論文を発表。詩人としては、1988年度の「ユリイカの新人」に選ばれ、詩誌『妃 kisaki』を主宰する。科学と文学の両分野から横断的でより高い視点を追求し、一貫して“場所の移動”について考えることをライフワークにしている。
著書に詩集『山が見える日に、』(思潮社)、『スウィートな群青の夢』(未知谷)。米国の『ユング・ジャーナル』(Routledge)の日本詩歌特集の翻訳・編集を担当。『わたしの茂吉ノート(仮題)』(近日刊行予定)
詩誌『妃 kisaki』17号