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中原中也との愛 ゆきてかへらぬ

著:長谷川泰子 編:村上護 (角川ソフィア文庫)

中原中也さんの詩に度々詠(うた)われた長谷川泰子さんが、長い沈黙を破って70歳の時に発表した告白的自伝。
長谷川さんは京都で演劇活動中に、稽古を見学にきていた中原さんと出会い、共同生活を始める。長谷川さんは20歳、中原さんは17歳の時だった。それぞれの夢の実現もめざし、1925(大正14)年、一緒に上京。中野での暮らしを経て高円寺町高円寺(現在の杉並区高円寺南)に移る。しかし、二人の新生活は長くは続かなかった。長谷川さんが、中原さんの友人、小林秀雄(※1)さんの元へ走ったからだ。この事件は、中原さんの心に深刻な痕跡を残した。一方、長谷川さんは、「私は中原のところから、どこかへ行かなきゃあ、と漠然と考えていたけど、東京では身をよせて頼れる知人なんかどこにもいんかったんです。そんなとき、小林が橋をかけてくれたようなことになったから、私はそっちへ渡って行きました。」と、いたってクールだ。
長谷川さんのその後は、平坦な道のりではなかった。小林さんとの結婚生活は数年で破綻する。演劇仲間との間に子をもうけ、女優、未婚の母として生き、再婚、離婚を繰り返した。この自伝からは、中原さんとのいきさつのみならず、むしろ、昭和の初期、モダンガールとして生きた一女性が葛藤する姿が読み取れる(※2)。また、長谷川さんが暮らした、東中野や永福町界隈に集った芸術家たちとの交流の逸話も印象に残る。

おすすめポイント

長谷川さん、中原さん、小林さんの三人の関係は、奇妙な関係といわれる。いきさつはともかく、三人の各々の縁は長く続くことになる。高円寺への転居は、親しくなった小林さんの家(杉並町馬橋、現在の杉並区高円寺南)の近くに住みたいという中原さんの希望だった。その後、長谷川さんは、小林さんが用意した杉並町天沼(現在の杉並区天沼)の家に移る。中原さんはというと、高円寺を去るものの、度々天沼にやってきては変わらず小林さんと話し込んだという。一人の女性をめぐる中原中也と小林秀雄のドラマ、杉並が舞台なだけに一層、興味を引くが、その謎の時代の一端を知ることができる自伝でもある。

※1 小林秀雄:評論家。代表作は『様々なる意匠』『無情といふ事』『ゴッホの手紙』『本居宣長』など。自分自身の生き方を問う創作姿勢で、日本の評論文学の創始者。『考えるヒント』『学生との対話』などのエッセイ、対話集はロングセラーを続けている。中原中也さんが、死の直前、詩集『在りし日の歌』の刊行を託した人物。中原さんの死後、その詩の紹介に尽力した。杉並ゆかりの評論家で劇作家の高見澤潤子さん(田河水泡夫人)の実兄にあたる

※2 本書は映画化され(『眠れ蜜』1976(昭和51)年公開)、長谷川さんは女優の人生を三部構成で描いたストーリーの老年期を演じた。若い頃は、女優として映画1本のみの出演に終わっていた長谷川さんだが、73歳にして再び脚光を浴びることになった


▼関連情報
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DATA

  • 取材:井上直
  • 掲載日:2017年06月12日
  • 情報更新日:2024年06月27日