関村ミキ(1883-1971)は、農の哲人・江渡狄嶺(えどてきれい、1880-1944)の妻。秋田の名家に生まれ、明治後期に理系の高等教育を受けた才女で、1905(明治38)年、21歳の時に狄嶺と学生結婚した。その後、高井戸村字原(現・杉並区高井戸東)に狄嶺が開いた農場「三蔦苑(さんちょうえん)」で、夫とともに百姓生活を実践。帰農後は、狄嶺の思想の共同実践者として活動し、三蔦苑を訪れた文化人や狄嶺の弟子たちに多大な影響を与えた。
高井戸で約60年の長い年月を過ごしながら、狄嶺と同様、知られざる存在だったミキだが、大正デモクラシーの影響を受けながら新しい生き方を貫いた女性として、杉並の歴史に記録しておきたい人物だ。
『ミキの記録』
ミキが亡くなった後、遺品の中から日記、活動日誌、各種メモなど数々の記録が発見された。これらは全て、発表を想定しないで書かれた個人的な記録だが、女性の視点で明治から昭和の生活を綴った希少な史料であるといえよう。1971(昭和46)年、狄嶺の関係者たちが、日記などの一部を収録した『ミキの記録』(三蔦苑)を刊行。同年、毎日新聞が本書の内容とミキ自身の紹介記事を掲載し、注目された。
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※記事内、故人は敬称略
1883(明治16)年、関村ミキは秋田県鹿角郡花輪村(現・鹿角市)に生まれた。生家は江戸初期から続く名家で、跡取り娘のミキは大家のお嬢様として何不自由なく育った。小学校の時には成績優秀で秋田県知事から表彰されるほど聡明で、卒業後は高等女学校レベルの学習教材を東京から取り寄せて、家庭で通信教育を受けていた。
しかし関村家の経済状況が次第に悪くなったこともあり、ミキは職業婦人としての自立を目指す。1904(明治37)年、女子高等師範学校附属高等女学校専攻科(※1)に入学。理系志望で、化学を専攻したという。この頃の日記には、流麗な筆文字の文語体で、「午後の化学の時間に、弗化(ふっか)水素の実験しぬ。硝子(がらす)板二枚に画を刻して持ち帰りぬ。」「指輪に銀メッキをなし、なほその上に金メッキをなしいただきぬ。」など、当時まだ珍しかった理系の女子学生の授業風景が記録されている。
学生結婚し、夫婦別姓を貫く
職業婦人となるために20歳で上京したミキだったが、当時、東京帝国大学の学生だった狄嶺と出会い、たちまち恋に落ちる。ミキの孫娘・江渡雪子さんによると、二人とも跡取りだったため、周囲から猛反対されたそうだが、出会った翌年に結婚。親の決めた相手との縁組が通例だった時代に、恋愛の末、学生結婚というのは異例のことだった。しかもミキは、生家の13代目の跡取りとして関村の姓を守るため、狄嶺の籍に入らず、夫婦別姓を貫いた。
※1 女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)附属高等女学校専攻科:1901(明治34)年、高等女学校卒業者(または同等以上の学力を有する女子)に、専門的な知識を与えることを目的として設けられた
高等女学校専攻科を1906(明治39)年に卒業したミキは、翌年8月に長女・不二(ふじ)を出産し、故郷の花輪村で育児に専念する。同じ頃、狄嶺は小作百姓となる決意を固め、1911(明治44)年、千歳村船橋(現・世田谷区)にミキを呼び寄せて帰農した。ミキは不二を花輪村の母に預け、生後10カ月の長男・十蔵を連れて百姓生活に飛び込んだ。慣れない百姓生活は過酷だったが、ミキは聖書を心の支えにして、ひたすら狄嶺と行動を共にした。その頃のミキの日記には、「神様、どうか粉骨砕身して、働く力を与え給ふ事を」と、自らを叱咤激励する暮らしぶりが書かれている。
1913(大正2)年、ミキと狄嶺は高井戸村字原(現・杉並区高井戸東)に移り、狄嶺の親友の弟・小平英男と3人で、農場「三蔦苑」の共同経営を開始。ミキは、現金収入につながる鶏卵販売を主に担当した。ミキが亡くなった時に寄せられた関係者らの追悼文によると、ミキの養鶏についての豊富な知識と的確な作業ぶりは、狄嶺の弟子たちを圧倒するほどだったそうだ。1935(昭和10)年に狄嶺が三蔦苑内に開設した家塾「牛欄寮(ぎゅうらんりょう)」では、寮母として塾生たちを迎え、狄嶺の教育活動を支えた。また、寮で講師を招いての特別講義が行われると必ず塾生と一緒に聴講し、多忙な農作業に従事していても常に向学心を忘れなかった。
高村光太郎らと芋堀り
1916(大正5)年から1925(大正14)年までのミキの日記を読むと、簡潔な文体の鉛筆書きで、著名人を含む多数の来客に対応する様子が記録されている。1917(大正6)年の夏には、社会主義者・堺利彦(1871-1933)が設立した政治団体の売文社にスイカを届け、1921(大正10)年には、高村光太郎(詩人・彫刻家、1883-1956)、高田博厚(たかたひろあつ、彫刻家、1900-1987)、尾崎喜八(おざききはち、詩人、1892-1974)、水野葉舟(みずのようしゅう、作家、1883-1947)らと芋堀りをするなど、文化人と農を通じた交流をしているのが興味深い。
ミキと狄嶺は、4人の子供たち(※2)を就学させずに家庭で教育した。1914(大正3)年、長女・不二が小学校に上がる年になると義務教育を拒否し、独自のカリキュラムで自宅教育を開始した。
1918(大正7)年に江渡家の家庭日誌に掲載されたカリキュラムや教育計画を見ると、幼時から木琴を習わせるなど情操教育を大事にしつつ、20歳までに女子は女学校、男子は大学卒業程度までの学力をつける想定で、綿密な時間割が組まれている。自主性を高めるため、子供たちを中心に家庭新聞を発行させるなどユニークな取り組みも多くみられ、狄嶺と交流のあった文化人たちが、不二に絵画や書を教えていたという。また、地域の子供たちを三蔦苑に集めて牧師を呼び、日曜学校や集会も開いていた。そのほか、4人の子供それぞれに違う外国語を学ばせるなど、先進的な教育を試みた。
だが、毎日の農作業と絶え間ない来客の応対に追われる暮らしの中で、残念ながら、自宅教育は理想通りに進まなかった。しかし、ミキの日記や狄嶺の著作に残された記録を読むと、親として最良の教育を目指した二人の愛情と奮闘ぶりがわかる。
「H・C・S・ガーデン」
自宅教育に充てる資金が捻出できなかったため、ミキは三蔦苑内で子供たちに花を栽培させて売ることで、少しでも教育費を蓄えようと努力した。ミキと狄嶺はその花畑を「H・C・S・ガーデン」(※3)と名付けた。狄嶺の著書『或る百姓の家』に、ガーデン運営の様子を書いたミキの文章と不二の作文が掲載されている。作文には、作家の水野葉舟にグラジオラスの球根を譲り受け、狄嶺のアメリカ在住の友人からスイートピーの種を送ってもらって、試行錯誤しながら育てる生き生きとした姿がつづられている。
※2 ミキと狄嶺には5人の子供がいたが、長男・十蔵は6歳で亡くなっている
※3 H・C・S・ガーデン:「H・C・S」は、Home(家庭)、Church(教会)、School(学校)の頭文字
狄嶺が1944(昭和19)年に急逝した後も、ミキは三蔦苑での生活を維持し、狄嶺の思想や業績について研究を続ける弟子や学者たちを迎え入れた。年老いてからも科学雑誌を愛読し、専用の化学実験用具を机に並べて勉強を続けていたという。着の身着のまま、ニワトリの餌が入っていた麻袋を前掛けに仕立て直して身に着けるような質素な暮らしぶりだったが、生前のミキを知る人たちは「気品と知性を感じる秋田美人だった」と憧れをこめて記している。
狄嶺は著書『或る百姓の家』に掲載した「妻に与ふる手紙」の中で、「愛する妻よ」と繰り返し呼びかけ、思想実践の同志としてのミキの貢献に深く感謝している。ミキもまた、後年、狄嶺の墓碑に「人生、生活の基準 百性愛道場の創始者/江渡狄嶺 みき 小平英男/後に道場を三蔦苑と改称し百姓生活をなす」と刻み、百姓として狄嶺と歩んだ日々を誇らしく振り返っている。
ミキは、1971(昭和46)年に亡くなるまで高井戸で過ごした。これまで区内でその生涯にスポットが当たることはなかったが、この取材をきっかけに、ミキの残した史料の一部が杉並区立郷土博物館に寄贈されることになった。近代女性史と杉並の歴史を理解する貴重な記録として、大切に引き継いでいきたい。
関村ミキ プロフィール
1883年、秋田県生まれ。1905年、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)附属高等女学校専攻科在学中に江渡狄嶺と結婚。1913年、現在の高井戸東に農場・三蔦苑を開き、狄嶺没後も1955年頃まで営農を続けた。1971年に87歳で逝去。
『或る百姓の家』江渡狄嶺(總文館)
『土と心とを耕しつつ』江渡狄嶺(叢文閣)
『江渡狄嶺選集(上・下)』江渡狄嶺(家の光協会)
「江渡狄嶺研究 第1号~第28号」(狄嶺会)
『江渡狄嶺書誌』大西伍一編(狄嶺会)
『ミキの記録』大西伍一編(三蔦苑)
『江渡狄嶺 目で見るその生涯』狄嶺会五戸支部(三土社出版部)
『江渡狄嶺― 「場」の思想家』和田耕作(甲陽書房)
『現代に生きる江渡狄嶺の思想』斎藤知正、中島常雄、木村博編(農文協)
『場の教育―土地に根ざす学びの水脈』岩崎正弥、高野孝子(農文協)
『新修 杉並区史 中』(東京都杉並区役所)
『お茶の水女子大学百年史』(お茶の水女子大学百年史刊行委員会)
取材協力:江渡雪子さん、江渡まち子さん