富士見ヶ丘駅ホームから、「佳日そろばん教室」の看板を掲げた白い建物が見える。中学1年でそろばん十段、中学3年で日本一(※1)を獲得した髙橋佳朗(よしろう)さんが、2017(平成29)年1月に26歳で開設した人気のそろばん教室だ。
「いんいちが0.5、ににんが2」。半九九(※2)を呪文のように唱えながら、数字が蟻(あり)の行列のように並ぶ平方根(※3)を解いている男性がいる。また、足し算や引き算に夢中で取り組んでいる若い女性もいる。開設当初は主に年配者向けに、簡単な計算で認知症を予防してもらうことを目指していた。そろばんの玉をイメージする映像記憶の計算法が、脳の活性化につながると考えたからだ。「そろばんに親しんだ世代には効果が期待できると思う」と髙橋さんは言う。今は年配者だけでなく、いろいろな世代に趣味としてそろばんを楽しんでもらいたいそうだ。
“こども教室”では、実生活に生きる暗算力を鍛えている。取材中に、男の子が母親に手を引かれてやってきた。まだ5歳とのこと。「せんせい、“ともだちのかず”でいいの?」と、「1と9」「2と8」といった10を組み立てる数字“ともだちのかず”で、そろばん玉の繰り上がりを確認しながらそろばんをはじく姿に、かつての髙橋少年の姿が重なって見えた。
※1 七夕そろばんワールド2005 総合競技 中学生の部(主催:日本珠算育成会)
※2 半九九:九九の答えを2で割ったもの。これを使って平方根を解くことを半九九法という
※3 平方根:中学3年で学習
髙橋さんは、これまですっと一番にこだわってきた。「一番と二番では市場価値が全然違いますから」。そろばん十段は、髙橋さんにとって極め付けの一番だ。社会に出て、これは市場価値が高いと判断し、勤めていた大手通信会社を退社してそろばん教室を起業した。
一番は限られた人のものではないのかという問いに対し、「実は一番になるための、明確な方法があるんですよ」と答える髙橋さんの「タネ証(あかし)」は、こうだ。「超一流や一番になるためには1万時間の訓練が必要という、マルコム・グラッドウェル(※4)の“1万時間の法則”があるんです。途方もない時間みたいですけど、1日に5.5時間でも5年で1万時間を超えるんです」。なるほど、これならいけそうな気がしてくる。まるで数式の証明のような明快な展開だ。取材していたライターも、話がストンと胸に落ち、何度も大きくうなずいてしまった。
※4 マルコム・グラッドウェル:ジャーナリスト、作家。『Outliers』(邦題:天才!成功する人々の法則 2007年)の著者。1963年生まれの米国人
「いろいろなものに挑戦するなかで、“あ!これが好き!”と思う瞬間が誰にもあると思う。心の底から好きなものに没頭すると、1万時間なんて簡単に超えてしまいますよ」と言う髙橋さんの場合、そうしたものの1つが陸上競技だった。大学生時代に“1万時間の法則”を実践し、100m走で10秒83という学内記録を樹立している。「大事なのは、“のめりこめるものを見つけること”」だそうだ。「当時は、日常生活で行うことすべてが練習になっていました。歩いているとき、座っているとき、荷物を運ぶとき、階段を上るとき、どこの筋肉を使っているか、どうすれば身体操作をうまくできるか頭の中で関連付けて夢にまで見た。まさに“夢中”でしたね。とは言え、嫌だけど必要なものもありますよね。イヤイヤ続けないで、“楽しくやるための創意工夫”をするといいと思う」。10秒83の学内記録は長いこと保持していたが、つい最近破られた。「う~ん、悔しい」と、髙橋さんは無念さをにじませる。
杉並区内の高校でキャリアデザインの講演をした際に、髙橋さんは「高校の最後の1年間と大学の4年間を合わせると5年になる。この間に“1万時間の法則”に挑戦してみては」と、生徒たちに提案している。一番になるための思いがけない方法に、高校生は目からうろこが落ちる思いだったかもしれない。1万時間を使いこなした時、その先にどんなキャリアデザインを描けるか、自分の将来を考えるきっかけになったことだろう。
髙橋さんが起業について語る時、「イノベーション(※5)」や「常識」ははずせない言葉だ。「世界は“イノベーション”によって大きく動いてきた。今、“イノベーション”が起こせるのは起業家ではないかと思うんです」。髙橋さんは起業家の集まりや地域のイベントなど、さまざまなコミュニティー(※6)に参加することに、時間を惜しまない。人と人がつながって生まれる力が、掛け算のように増えて “イノベーション”につながるのではないかと思っている。
「常識」にもこだわりがある。「“常識は自ら作るもの”と、あえて言いたい。“常識”は時代や環境により、簡単に変わってきたんですから」。髙橋さんの起業のひらめきも、「自ら作る常識」の中から生まれたのだろう。
「これも起業に大事」と切り出したのが、自己満足と市場のニーズを混同しないということ。「報酬は自身が苦労した対価ではなく、相手を幸せにした対価と考えています」と語る。
起業には、まずは金銭的な基盤作りに加えて、商圏の戦略が必要だ。富士見ヶ丘でのそろばん教室の開設は、集客を考えて全国珠算教育連盟に加盟し、近隣に競合他社がないことを確認して決めた。その結果、オープンわずか3カ月で純益を出し、半年で生徒数が60人を超えた。
※5 イノベーション:技術革新や新しい考え方により、社会的に大きな変化をもたらすこと
※6 コミュニティー:目的を共有している仲間、共同体
髙橋さんのそろばん事業の展開はスピード感にあふれ、将来の事業への意欲も旺盛だ。
近年、そろばんへの関心は世界各地で高くなっているという。「もっと、SNSなどを利用した日本からの発信があるといいと思う」。髙橋さんにとって、SNS発信は前職で培った得意分野だ。おまけに言語は、英語の他にスペイン語とドイツ語も堪能というから、「そろばん」という伝統ある業界の中では、世界に向けて発信できる数少ない人材だろう。今後は、そろばんを「ジャパニーズトラディショナルカリキュレーター」としてネット上で紹介し、技法を配信することも考えているそうだ。
「高齢者や障がい者、シングルマザーはもちろん、バリバリのキャリアウーマンも僕の中ではマイノリティー(※7)です。そんな人たちのための事業も展開していきたい」。そろばん教室を第一弾として、時代が求める新分野での起業にも夢が膨らむ。
今は、「佳日そろばん教室」でのアクセルを大きく踏み込んだところ、快適なエンジン音が響いている。
※7 マイノリティー:社会的少数派、社会的弱者をさすことが多い。社会的な偏見や差別の対象、社会的損失を被ることがある人たち