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木山捷平さん

詩人から小説家へ

木山捷平(きやま しょうへい 1904-1968)は、岡山県小田郡新山村(現笠岡市)に生まれた。2年間小学校教諭を務めたが、詩人になる夢を捨てきれず上京、1929(昭和4)年に詩集『野』を自費出版する。1933(昭和8)年に太宰治らと同人誌『海豹』を創刊したころから、小説家に転向していった。小説『抑制の日』は1939(昭和14)年に芥川賞候補に、翌年には『河骨(こうほね)』も候補になっている。
1944(昭和19)年、旧満州国の新京(現中国東北部・長春市)に農地開発公社の嘱託として赴任し、翌年8月12日に現地召集を受けた。この満洲での難民生活を独特のユーモアを交えて描いた『耳学問』が直木賞候補になり、その後『大陸の細道』で1962(昭和37)年に第13回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

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「無門庵」と称した自宅庭先にて(写真提供:吉備路文学館)

「無門庵」と称した自宅庭先にて(写真提供:吉備路文学館)

満洲での体験をもとに書かれた長編『大陸の細道』(講談社文芸文庫)

満洲での体験をもとに書かれた長編『大陸の細道』(講談社文芸文庫)

『酔いざめ日記』に見る文士たちとの交わり

木山は1952(昭和27)年12月に練馬区に自宅を構えるまで、1932(昭和7)年から阿佐谷、馬橋、高円寺、西荻窪の借家を転々としていた。1968(昭和43)年までの日記をまとめた『酔いざめ日記』を読むと、杉並での暮らしぶりがうかがえる。
将棋好きで、地域の文士の親睦会「阿佐ヶ谷将棋会」に参加しており、日記にも将棋会の開催日、参加者、勝敗などを几帳面に記録していた。1938(昭和13)年の将棋会では「遅刻して太宰治に挑戦され落ち着かぬうちに指して負け、その後の戦況もはかばかしくないままピノチオで宴会となった」とある。また、1939(昭和14)年の日記には、自身の芥川賞落選を中谷孝雄宅で見た夕刊で知ったことが書かれている。この時『抑制の日』が候補作に挙がっていた木山は、ひょっとしたら受賞するのではないかと期待感を持っていたようで、友人に落胆した姿を見せたのではないかと自己嫌悪する。木山の人柄がうかがえるエピソードだ。
息子の萬里(ばんり)さんは「父は阿佐ヶ谷会をいつも楽しみにしており、外村繁さんとも交友がありました。今の練馬の自宅に引っ越した頃、私は高校生で、井伏鱒二先生宅へよく使いに行っていました」と振り返る。

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『酔いざめ日記』(講談社)。度々の引っ越し、友人、文士たちとの飲み会、執筆の苦悩などが書かれている

『酔いざめ日記』(講談社)。度々の引っ越し、友人、文士たちとの飲み会、執筆の苦悩などが書かれている

故郷への思いと杉並での作家生活

小学生時代の少女へのほのかな思いを描いた『うけとり』(後に『初恋』に改題)をはじめ、木山は郷里・岡山をしのぶ作品も残している。『河骨』は、主人公の教師と初恋の女性との物語で、木山の故郷への愛惜と短かった教員時代の思い出などを凝縮したような作品だ。1941(昭和16)年の日記には、木山の著書『河骨』『昔野』の出版記念会が開かれ、青柳瑞穂、太宰治、井伏鱒二など多くの文士が集まったとある。その二次会で、井伏は寄せ書きに「捷平と血族をあらそふ春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」と記した。岡山、広島と出身県は違うが、共に吉備と呼ばれた地方の出で、井伏は木山が自分に対して敬愛の念を持ち続けていることを意識していたようだ。

文芸評論家・栗谷川虹による木山捷平の研究書『木山捷平の生涯』(筑摩書房)

文芸評論家・栗谷川虹による木山捷平の研究書『木山捷平の生涯』(筑摩書房)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『酔いざめ日記』木山捷平(講談社)
    『日本短篇文学全集 第36巻』臼井吉見編(筑摩書房)
    『木山捷平の生涯』栗谷川虹(筑摩書房)
    『木山捷平全集 第二巻』木山捷平(講談社)
    『大陸の細道』木山捷平(講談社)

  • 取材:杉野孝文
  • 撮影:写真提供:吉備路文学館
  • 掲載日:2021年05月10日