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岩崎通信機株式会社

通信産業のパイオニア

岩崎通信機(以下、岩通)という会社をご存じだろうか。京王井の頭線久我山駅の南口、玉川上水のほとりに社屋を構える、業務用通信機やオシロスコープで業界を支える大手である。その発祥は1938(昭和13)年と古く、創業80年を超えた。主な事業は、ビジネスホンなどの情報通信事業、オシロスコープなどの電子計測事業、印刷システム事業である。また、近年はIoT(※)サービスやウェブコミュニケーションツールといった分野に力を入れている。
通信機器より出発した創業時の様子や、杉並区との関わりはどのようであったか、経営の危機を乗り越え杉並区最大規模に成長した長寿企業の歴史はどう刻まれていったか。経営企画部広報担当に取材した。

岩通の誕生
創業者・岩崎清一は1895(明治28)年、島根県に生まれた。小学校高等科卒業後、単身上京し働きながら夜間中学に通う苦学力行の人だった。兵役後、北海道で事業家として出発した。
岩崎は事業手腕に加えて機を見るに敏く、その先見性が彼の自信と決断を支えていた。鉄道や鉱山をはじめとする数々の事業を幅広く手掛けた後、1933(昭和8)年に東京に進出。そこでまず着目したのが鉄道、警察、電力会社、鉱山などで使用する電話機の開発だった。当時、それらの現場で使用する電話は、誘導妨害や雑音が入ったり、減衰の大きい不良回線であったり通話困難なことが多かった。そこで妨害を取り除く、誘導除去強力電話機の開発を行った。
そしてもう1つ、軍用秘密電話の開発にも着目した。岩崎が軍隊時代の上官を訪ねたとき、たまたま陸軍が秘密電話を切望しているとの話を聞き、開発意欲をそそられたのだ。すぐに技術者を探し、早稲田大学電気工学科でテレビジョン研究開発を行う早川幸吉との出会いにより、秘話装置付電話機が完成した。1938(昭和13)年の国家総動員法により、軍当局よりこの秘密電話の発注が本格化。また、先の誘導除去強力電話機に対する関心も高まり、官民双方で大幅に採用された。
その結果、事業基盤がようやく固まり、1938(昭和13)年に個人企業から株式会社に改組し、渋谷区代々木上原に資本金30万円、従業員約50名で岩崎通信機株式会社が誕生した。この時、岩崎は43歳だった。

外観

外観

初代社長・岩崎清一(写真提供:岩崎通信機株式会社)

初代社長・岩崎清一(写真提供:岩崎通信機株式会社)

創業時代々木上原時代の全従業員 (昭和14年頃)(写真提供:岩崎通信機株式会社)

創業時代々木上原時代の全従業員 (昭和14年頃)(写真提供:岩崎通信機株式会社)

戦時体制下、杉並区移転と岩崎学園

1941(昭和16)年、太平洋戦争が始まり、陸軍より電波探知機(レーダー)の研究を他社(株式会社日立製作所、日本電気株式会社)と共に命じられる。1939(昭和14)年に新設された世田谷区の烏山工場の生産が設備能力がいっぱいで、新しい電波兵器の開発が加わるとなるとどうしても本格的な大工場建設が必要だった。新しい本社・工場用地として、静岡県や栃木県も検討されたが、岩崎は久我山の広い畑地に目を付け、建設予定地とした。
当時の久我山は、人家もまばらで玉川上水南側には民家が一軒もなかった。工場建設予定地の大部分は夏物野菜栽培の1級地であり、農林省からは防空緑地帯として指定されるほどで、電気水道の便が良く、さらに烏山工場に隣接という、岩通にとって最良の立地条件だった。軍部の後押しもあって、半ば強引に土地を譲っていただき、本拠地とすることができた。この経緯があり、地域への感謝の念と恩義は、現在の岩通の社員にも深く根付いている。
ちょうどこのころ岩崎は、企業の発展に尽力する傍ら技術者育成の必要性を感じ、工員たちに敷地に用意した寮に住まわせ、仕事が終われば社員向けに開設した学校に通わせた。さらに1944(昭和19)年、広く一般の若者を対象にした財団法人岩崎学園久我山中学校を開校。この学園が、後の国学院大学久我山中学高等学校である。

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すぎなみ学倶楽部 特集>杉並の私立高等学校>国学院大学久我山中学高等学校

久我山本社工場全景(昭和18年)(写真提供:岩崎通信機株式会社)

久我山本社工場全景(昭和18年)(写真提供:岩崎通信機株式会社)

終戦後、軍需産業から平和産業へ

戦時中には軍需工場に指定され、めざましい成長を遂げたが、第2次世界大戦敗戦とともに需要がなくなり、さらに元軍需工場ということから、軍部の職業軍人たちを雇用しなくてはならず経営が圧迫。経営状態を立て直すため、電話以外にも電気に関することなら何でも引き受けるようになる。国鉄の鉄道用モーターの修理、ラジオ製造や織機製造なども手掛けたが、経営難はさらに深刻化した。そこで岩崎を含めほとんどの役員が退任し、再建目指して新体制となった。新社長には王子製紙株式会社の社長を経て、戦後東京商工会議所会頭などの要職についた足立正、副社長には中島飛行機株式会社の取締役で戦時中技術者としても活躍した吉田孝雄が就任した。
戦後の日本経済は非常に厳しかった。インフレを収束するための行財政制度改革により産業界は急激に沈滞、日本経済は恐慌状態に陥っていた。経営の見直しとして人員整理のみならず、資産の整理も行った。工場の一部と、戦時中に工場診療所として経営してきた久我山病院を売却。また、岩崎清一創立の岩崎学園の土地、建物は国学院大学に売却した。そのような状況下でも、岩崎社長時代に示された「軍需産業から平和産業へ」の転換方針に基づいて、電話機の試作研究及びその量産体制の確立については引き続き取り組み続けていた。
岩崎は、戦争による徹底的な荒廃が電話機のような通信機材の無限の需要を生み出すであろうという見通しを立てていた。そのため社員は安心感と希望を持って従事していた。1950(昭和25)年、日本の復興計画の中で電気通信省が、空線のある限り無制限で電話を架設という整備を実施し、必要とされる5万台という前例のない発注を行った。この時、かねてより続けていた電話の研究開発が実を結び、全発注量の53%という大量の電話機を完納する。引き続き、改良を重ねた新型の電話機発注も受け、厳しい経営状態のなかでも電話機の量産設備への投資を推進していった。この年に通信機業界で初めて、ベルトコンベアシステムを導入した。
その後も作業環境改善のための工場改修、電電公社による「電気通信技術標準実施法」を受けての品質管理の徹底など、電話機メーカーとしての地位を確立していった。1952(昭和 27)年からは業績も上昇し、翌年には株式を公開した。30年代初めは景気上昇気運のもとで通信業界も電電公社に支えられて好調で、岩通は増収増益、一層の近代化に取り組み、1957(昭和32)年に東京証券取引所第1部に上場した。そして1959(昭和34)年、上場前より続けていた日本初のボタン電話装置(ビジネスホン)を実用化、電電公社へ納入した。それは、電話交換手を不要とする画期的な製品だった。

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すぎなみ学倶楽部 歴史>【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡

ベルトコンベアでの電話機生産 NHKで紹介される工場(昭和30年)(写真提供:岩崎通信機株式会社)

ベルトコンベアでの電話機生産 NHKで紹介される工場(昭和30年)(写真提供:岩崎通信機株式会社)

1947(昭和22)年、送話器と受話器が連結した送受機スタイルの電話が登場

1947(昭和22)年、送話器と受話器が連結した送受機スタイルの電話が登場

株式上場から現在にかけて

しかし、このような電話機一辺倒の体質に、経営陣は危機感を抱いていた。当時、立川にあったアメリカ極東軍がレーダーの修理にオシロスコープという電気測定器を用いている、という情報を得て、研究開発を重ね、1954(昭和29)年に日本初となるオシロスコープの開発・製品化に成功した。その第1号機を、保安庁技術研究所に納入した。それ以降、オシロスコープは現在でも岩通の主要事業の1つとなっている。さらに、1957(昭和32)年から新しく電子製版機の開発を進め、1961(昭和36)年に事業化にこぎつけた。以後、電話機、オシロスコープ、電子製版機は3本柱として岩通の事業を支えることとなる。
その後、現在に至るまで、JAXAが打ち上げるロケットの燃料を自動充填するための制御システムの提供、シルバー世代用緊急通報装置など、ユニークな製品・事業を手掛けてきた。現在では、ビジネスホンのコードレス化、IP化やクラウド型コールセンターシステムというように従来のビジネス領域を拡大させる一方、ウェブ会議システムや遠隔監視センシングシステムなど新規分野にも進出。パワーエレクトロニクス分野では、脱炭素の流れで需要が高まる電気自動車、高速鉄道等に使用されるパワー半導体の測定器なども開発した。

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すぎなみ学倶楽部 産業・商業>杉並の企業>岩崎通信機株式会社

日本初となるオシロスコープ

日本初となるオシロスコープ

「IWATSU」は杉並区の地域とともに

久我山駅から南に真っすぐ岩通へと続く久我山南銀座会の通りは、「岩通通り」と呼ばれて久しい。英語の社名は「IWATSU ELECTRIC」(イワツー エレクトリック)。久我山の街に溶け込んだ企業は、区民からも親しみを込めて「いわつう」と呼ばれている。
春秋の「全国交通安全運動」や「TOKYO交通安全キャンペーン」の時には、岩通社員も高井戸交通安全協会の一員として久我山駅前に街頭出動し、地域の人々と交通安全推進活動を行っている。久我山連合商店会が主催するイベント時などには、来場者用の駐輪場や警備車両の駐車スペースとして駐車場を提供。チャリティーイベント「杉並チャリティー・ウォーク」でも、社員が20年以上、実行委員やボランティアとして協力している。
2017(平成29)年には、杉並区と「災害時等における緊急物資拠点施設の提供に関する協定」を締結した。大規模地震などで被災した場合に、全国から届く支援物資の一時的な保管場所として岩通の本社倉庫などが運用される。区の広報によると、協定書の取り交わしの際に岩通の担当者から「長年、杉並区民に支えられて営業活動を行ってきました。いざという時には、微力ながら地域のために貢献できればと考えています」とあいさつがあったという。
創業者・岩崎清一の地域に対する温かい思いが、現在の岩通の取り組みからも伝わってくる。

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すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並のイベント>杉並チャリティー・ウォーク

※IoT:Internet of Things。スマートスピーカーやスマートホームなど、モノに通信機能を搭載してインターネットに接続・連携させる技術

商店街の街灯に「岩通通り」の表示がある

商店街の街灯に「岩通通り」の表示がある

本社の北側、玉川上水に架かる「岩崎橋」

本社の北側、玉川上水に架かる「岩崎橋」

DATA

  • 住所:杉並区久我山1-7-41
  • 公式ホームページ(外部リンク):https://www.iwatsu.co.jp/
  • 取材:小泉ステファニー、里村芙有子、おおつちさとべえ
  • 撮影:おおつちさとべえ、TFF
    写真提供:岩崎通信機株式会社
    再取材:2021年05月19日
  • 掲載日:2011年06月30日
  • 情報更新日:2021年08月02日