著者の小橋稔さんは、オペラの作曲を手掛ける海外でも活躍した音楽家でありながら、交通事故で失明をした後に、この作品を世に送り出している。昭和初期から始まったとされる荻窪周辺の文化人のコミュニティー「カルヴァドスの会」に参加しており、地域の歴史にも関心が高かったことが伺える。
この本は小説であるが、平安時代からの歴史解説のほか、小橋さんの専門分野である伝統的な芸能なども言及され、濃密な内容である。歴史や風俗に興味のある人に楽しんでほしい。
また、以下の情報を知っていると、より本書を楽しめるだろう。杉並が東京府豊多摩郡(※1)と呼ばれていた頃、下荻窪に「忍谷戸(しのびがやと)」という字名(あざな)が存在していた。『杉並の伝説と方言』(森泰樹著)によれば、江戸時代に荻窪の南側を領地としていた服部半蔵(※2)に由来するそうだが、近隣の住民が「忍」の文字を嫌ったため字名は消えて、現在は区立桃井第二小学校の近くに「忍川橋」が残るだけである。
※1 豊多摩郡:現在の杉並区・中野区・渋谷区・新宿区の一部が含まれる地域。1896(明治29)年発足、1932(昭和7)年に全域が東京市に編入
※2 服部半蔵(はっとり はんぞう):戦国時代から江戸時代にかけて徳川家に使えた服部家の当主が世襲した名前。初代は伊賀出身の忍者