大学入学後、数年間杉並区に住んでいました。親しい方から、近所に与謝野晶子(※1)さんが住んでいたという話を聞いたことが、執筆のきっかけになりました。杉並区は自然が豊かで気取らず、それでいて知的な香りが漂う山の手の雰囲気があり、小説の舞台にぴったりでした。日々暮らしていて、見慣れた街の景色の中にちょっとした歴史や物語を見つけると、愛着が湧いてきます。この作品がそんな発見の一助になればと願っています。
物語は、ヒロイン公子が、樹木がうっそうと生い茂る近所の与謝野邸(※2)をのぞき込む場面から始まる。彼女が、愛に生きた歌人与謝野晶子の情熱を感じ取る屋敷は、その心をざわつかせるメタファーとして幾度となく登場し、忘れがたい印象を残す。晶子作詞の杉並区立桃井第二小学校の校歌の一節が紹介されるなど、杉並との縁(えにし)が描かれているのも興味深い。
公子が通勤時に荻窪駅へ向かう道中の様子にも注目したい。まだ環状八号線は無く、駅の近くに市場があった頃の荻窪が、諸田さんの丁寧な描写によって作品中に鮮明によみがえる。そこに現在の風景を重ね、まちの変化に思いをはせるのもこの作品の楽しみ方の一つだ。
※1 与謝野晶子:(1878-1942)。日本の歌人、作家、思想家。代表作に処女歌集『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』
※2 与謝野邸:与謝野晶子が晩年を過ごした屋敷跡は、現在「区立与謝野公園」になっている