2021(令和3)年10月、杉並郷土史会(※1)主催の史跡見学会「上水に挟まれた地・高井戸を歩く」に参加した。京王井の頭線高井戸駅~久我山駅間の史跡を巡る約4kmのコースで、由緒ある寺社から道端にたたずむ庚申塔(こうしんとう)まで、見どころ満載だった。
解説を担当した杉並郷土史会副会長・伊東勝氏は「この地域は江戸時代、徳川幕府の直轄地で、上・下高井戸村(※2)は甲州街道の宿場町でした。杉並で古くから発展した地域の一つとして歴史的な魅力があります」と語る。
高井戸東遺跡からスタート
スタート地点は高井戸市民センター広場。隣接する杉並清掃工場を含むこの周辺には、旧石器時代から江戸時代に至る複合遺跡「高井戸東遺跡」が広がり、1976(昭和51)年の清掃工場建設に伴って発掘調査された。伊東氏は「杉並清掃工場は建設時に“東京ゴミ戦争”といわれる紛争も起こりましたが、地主の第13代内藤庄右衛門氏の協力もあって開設されました。内藤家は地元の名家で、江戸時代にご先祖の庄右衛門さんが神田川に架かる木の橋を石造りに変え、村人が橋普請(工事代金)を出さなくてもよくなったという逸話もあります」と話す。
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象頭山遍照寺(ぞうずさんへんじょうじ) 吉祥院
環八に出て神田川を渡り南に進むと、「高井戸のお不動さん」として親しまれている吉祥院がある。本堂の前では矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の像がキリリと両脇を固めていた。境内には築山があり、「明治時代、成田山までお参りに行けなかった信徒が代わりにここでお参りをしたそうです」と伊東氏が話す。築山にたくさんの像が立ち並ぶ姿を見て霊験あらたかな雰囲気を感じた。
上高井戸第六天神社(かみたかいどだいろくてんじんじゃ)
さらに南下し、甲州街道沿いにある上高井戸第六天神社へ。「明和8年」(1771年)銘の狛犬(こまいぬ)を見学する。屋外に安置されている狛犬としては、大宮八幡宮と並び区内最古だ。「狛犬は作り変えるたびに、前のものより立派にしようとどんどん大きくなる傾向があるようで、古いものほど小さい。いつ頃に作られたのか推測する参考になります」
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次の目的地は「社会福祉法人 浴風会」。関東大震災などにより自活できなくなった高齢者の援護を行うため、皇室からの御下賜金と一般からの義援金をもとに、1925(大正14)年に設立した。現在は東京ドームの約1.3倍という広大な敷地に、特別養護老人ホームや病院などを設置。外周を歩きつつ、その広さを実感した。
重厚な雰囲気の本館に近づいてみると、入り口の扉に優美な薔薇(ばら)模様があしらわれていた。コロナ禍のため内部の見学はできなかったが、伊東氏が「貴賓室控えの間には、近衞文麿(このえ ふみまろ)による“三寒四温”の額がかかっています」と様子を教えてくれた。
東門の近くには、新宿・中村屋の元社長、相馬愛蔵夫妻などの寄付により建設された老人ホーム「黒光園(こっこうえん)」の跡地がある。「相馬夫妻は大正時代、指名手配されていたインドの革命家ラス・ビハリ・ボースをかくまったことがあります。ボースが夫妻にカレーをふるまい、これが縁で中村屋はカレーライスを発売することになりました。ボースとともに独立闘争を展開したスバース・チャンドラ・ボースの銅像が、区内の蓮光寺(※3)にあります」
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東原遺跡
富士見ヶ丘駅方面に向かい、区立久我山小学校前に着いた。この辺りには、旧石器時代から縄文時代、および江戸時代の複合遺跡「東原遺跡」が広がり、全国的にも数少ない縄文時代草創期の住居跡も発見されている。「縄文時代、川が近くにあると動物が集まるので狩猟に便利だった。その頃から、この神田川を南にみる高台に、綿々と人が定着してきたのでしょう」
はだか稲荷社
人見街道に出ると、「はだか稲荷」という面白い名前の小さな社(やしろ)があった。この辺りには多くの秦(はた)氏が住んでおり、秦家(はたけ)がなまって「はだか」になった説や、社の周辺が畑で木がなかったことから「裸稲荷」となったという言い伝えがあるそうだ。
享保七年銘道標付庚申塔
人見街道の分岐点にある庚申塔は、区内で最も古く、1722年に造立された。撤去されたものも多い中、この庚申塔は当初よりほとんど位置が変わっていないそうだ。塔の右側には「これよりみぎいのかしらミち」、左側には「これよりひだりふちうミち」と刻まれており、江戸時代に道標の役割をしていたことがわかる。伊東氏は「岐の神(ふなどのかみ)、塞の神(さいのかみ)ともいわれ、久ヶ山村を守ってきました。余計なものは村に入ってくるなといっているようにもみえますね」とほほ笑む。
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杉並区>杉並区教育委員会>95 享保七年銘道標付庚申塔(外部リンク)
光明寺跡共有墓地所在民間信仰石造物
庚申塔が示す「いのかしらミち」を進み、明治初年に廃寺となった光明寺の跡地を見学した。現在は共同墓地になっており、敷地内にある小堂に、久ヶ山村のあちこちから集めた六地蔵や石仏が配置されてる。伊東氏が六地蔵にまつわる昔話を教えてくれた。江戸時代中期、光明寺の生臭坊主を懲らしめるために、6人の若者が住職を川に放り込んだが、住職は助かり、若者らは刑罰を受けて亡くなった。その供養のために6体の地蔵が作られたという。だが、真相は光明寺に借金をした若者らが返済を渋って住職に暴行を加えた事件だった。「若者の人数も実は5人で、地蔵の数と異なります」
久我山稲荷神社
最後の訪問先は古くから久ヶ山村の鎮守であった久我山稲荷神社。江戸時代には光明寺が別当寺として管理していたが、光明寺が廃寺になったため資料が残っておらず、創建の由来は明らかでない。朱色の二の鳥居は四脚鳥居で、伊東氏は「近くに川が流れていたから、しっかりした鳥居を造ったのではないか」と推測する。一の鳥居のそばには、元禄16年(1703年)造の庚申塔があり、西を向いていることから「西向きの庚申塔」と呼ばれている。「祭神が猿田彦大神(さるだひこのかみ)の庚申塔は珍しく、杉並ではここだけです」。今回は特別に境内にある額堂付神楽殿の中を見せてもらえた。奉納された古い絵馬が大切に保管されており、この地に暮らしてきた人々の思いが伝わってくるようだった。
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杉並区>杉並区教育委員会>登録文化財 有形民俗文化財>光明寺跡共有墓地所在民間信仰石造物(外部リンク)
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の寺社>久我山稲荷神社
※1 杉並郷土史会:1973(昭和48)年発足。地域の歴史研究や文化財の調査・保護などに取り組んでいる。歴史講演会を月1回、史跡見学会を年4回ほど開催。会員約210名(随時募集)
https://member.sugi-chiiki.com/rekishikai/
※2 江戸時代、現在の高井戸にあたる地域には上高井戸村、下高井戸村、大宮前新田、中高井戸村、松庵村、久ヶ山村があった
※3 蓮光寺:杉並区和田3丁目にある、1594年開山の日蓮宗の寺
※4 公事方御定書(くじかたおさだめがき):八代将軍徳川吉宗が制定した江戸幕府の成文法規集。光明寺騒動が「仕置之例」として記載されている
史跡見学会「上水に挟まれた地・高井戸を歩く」パンフレット(杉並郷土史会)
『杉並歴史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
『杉並風土記』下巻 森泰樹(杉並郷土史会)
『杉並の伝説と方言』森泰樹(杉並郷土史会)
新宿中村屋ホームページ https://www.nakamuraya.co.jp/
「明治二十年 二万分ノ一 東京近傍図七面組」古地図史料出版株式会社
協力:杉並郷土史会