1943(昭和18)年に出版された、津田青楓さん63歳の時の随筆集。旅、日々の生活、戦時体験(日露戦争)、美術…、さまざまな随想が、南画(※1)風の自筆の絵と共に収録されている。
京都生まれの青楓さん。織物の図案制作の仕事に始まり、洋画、工芸、日本画、書、文筆活動と、さまざまなジャンルで創作活動を続けた。創作を支えたのは、自由を希求する精神だった。夏目漱石門下で、漱石に油絵を教えた人物としても知られている(※2)。
洋画家として活躍し、天沼で絵画塾(※3)を開いていた青楓さんだが、本書が出版された時期は書、日本画、良寛研究に没頭していた。この変化には大きな挫折体験が影響していた。
1933(昭和8)年、共産党(非合法)への資金提供の嫌疑で検挙される(※4)。転向を表明し釈放された後、油絵の筆を断ち、創立メンバーでもあった二科会を脱会。天沼の別の家(墨荘と称した)に転居し、ひたすら内面に向かう沈黙の時代に入っていた。
「私は朝早く起きます。この頃なら六時と七時のあひだ、夏なれば五時頃に起き庭の草むしり、はき掃除などして」で始まる「生活随想」は、書を描き、銭湯に行き、散歩に出る、天沼での青楓さんの日常の姿を彷彿(ほうふつ)させる。風呂は、夏は自宅の庭の風呂桶。銭湯も広々としたところが好きでよく利用した。お気に入りの散歩先は「阿佐ヶ谷の森の下」にある道具屋。主人がおせじを言わず淡々としていて気に入っていた。また、人との交渉が困難になっていたこの時期、道具屋に集まる人たちの世間話から世の中の情報を得ていた。
※1 南画(なんが):江戸中期以降、中国の南宗画の影響のもとに独自の様式を追求した新興の画派の作品
※2 夏目漱石を囲む弟子たちを描いた絵画「漱石山房と其弟子達」は代表作の一つ。夏目漱石の本の装丁も数多く担当した
※3 津田青楓洋画塾。塾生は150人におよんだ。青楓さんは社会問題を絵のテーマとする芸術運動(新興リアリズムと称した)を展開した
※4 この時期、青楓さんは「ブルジョワ議会と民衆生活」「疾風怒濤」と、体制批判の作品を次々と発表していた。検挙時、制作中だった国家権力による思想運動弾圧を批判した「犠牲者」は、隠され、没収を免れた。「犠牲者」が展覧会で公開されたのは、戦後、1950(昭和25)年のことだった
※本書は現在、絶版となっている