今は昔の昭和の時代、杉並区阿佐谷のすずらん通り商店街(現南阿佐ヶ谷すずらん商店街)に「熊谷商店」という洋品店があった。切り盛りしていたのは、熊谷清子さん。俳優の熊谷真実・松田美由紀姉妹の母、松田龍平・松田翔太兄弟の祖母でもある。この物語のヒロイン熊谷キヨ子のモデルになっている女性だ。
作者のねじめ正一さんは、実家の「ねじめ民芸店」(※)が高円寺にあり、清子さんとは、「熊谷商店」が高円寺の庚申通り商店街にあった頃からの旧知の間柄。互いの店が阿佐谷に移転してからもご近所となり、交流が続いていた。家族を愛し、商売を楽しみ、激動の昭和をアグレッシブに駆け抜けた女性の小説仕立ての一代記は、ねじめさんの清子さんへの深い敬愛があればこそ出来上がった作品だ。後半で高円寺と阿佐谷が物語の重要な舞台として登場する。
▼関連情報
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何といっても、ポジティブで破天荒なキヨ子のキャラクターが光っている。若くして成り行きで結婚した夫の不品行に悩まされるなど、モデルの清子さんの苦労の尽きない人生が、ねじめさん得意の軽妙なタッチで、読者を元気にしてくれる物語に変わる。すずらん通り商店街の隣人との気の置けないやり取りからは、キヨ子の元気な声が響いていた頃の庶民的な商店街の様子が伝わってくる。
清子さんの二女松田美由紀さんの夫・故松田優作さん(没年1989(平成元)年、文中では杉田優平)との交流は、この作品の忘れがたいエピソードだ。人気俳優で、他を寄せ付けないような威圧感を醸し出す彼とキヨ子の間には、当初距離があったが、あることをきっかけに彼はキヨ子を信頼と親しみを込めて「おふくろ」と呼ぶようになり、彼女は余命いくばくもない彼をみとる。一時代を作った俳優までも取り込む、キヨ子の包容力がすこぶる魅力的だ。
※ 「ねじめ民芸店」:高円寺北口銀座商街(現高円寺純情商店街)で、1966(昭和41)年に乾物屋から転業し開店。1972(昭和47)年に阿佐谷パールセンター商店街に移転。ねじめさんが父親から経営を引き継ぎ営業を続ける。2019(令和元)年に閉店。ねじめさんは、1989(平成元)年第101回直木賞受賞作『高円寺純情商店街』で、高円寺での思い出をつづっている。