旧暦7月15日の前後数日を「お盆」といいますが、お盆というのは本来どのようなものだったのでしょうか。ここでは大正11年生まれのおばあさんに、数十年前の杉並のお盆について伺った話を紹介します。
本来お盆は、旧暦7月15日の「盂蘭盆会」※を中心とする前後数日の一連の行事ですが、都内では、旧暦7月をそのまま新暦に置きかえて、7月中に盆の行事を済ませているようです。
それでは、ちょっと昔、数十年前の杉並のお盆の様子はどのようなものだったのでしょうか?お話を大正11年(1922)生まれの田辺さん(阿佐谷南在住)に伺いました。
※「盆」とは、一般に盂蘭盆の略で、梵語のウランバーナ、すなわち逆さに吊るされた状態、はなはだしい苦しみを受ける死者のために祭をおこない、供養してその苦を免れしめる行事とされています。しかし、柳田国男監修の民俗学辞典によると、今日残存している民間の盆行事のうちには、なお仏教以外の古い信仰が痕をとどめており、盆は盂蘭盆の略ではなくて、瓮すなわ,ち供物をのせる器物の名で、古くボニと呼ばれた日本語ではなかったかとも考えられるとあり、意見のわかれるところのようです。
お盆といいますと、まずは迎え火です。7月13日の夕方には、皆さんおがらをたいて、家族総出でご先祖様をお迎えしておりました。
今でも、玄関先でたいていらっしゃるおうちがありますけど、昔は私の住んでいる馬橋あたりでも、墓地へ行って、お迎え火をおたきになる方もありました。
その火をおちょうちんに移してうちまで持ち帰ったものです。
おがらをたく器は、素焼きでできたホウロクというのがございましたが、これは、どちらかというと、いいおうちの方がお使いになっていたようです。
また、成田西の方では、麦わらで「たいまつ」をつくり迎え火をしていたそうです。
仏前にお供えするきゅうりやなすは、ご先祖様がお乗りになる馬(きゅうり)と牛(なす)を模したものです。
今の人には、ピンとこないでしょうが、わたくしが4歳のとき、早稲田から杉並に引っ越してきたときは、馬車でしたから、ご先祖様の里帰りも馬や牛でいいわけです。
乗り物の話が出たついでに申し上げますと、五日市街道には、進運バスというバスも走っておりまして、手をあげるとどこでも止まってくれるのんきなバスでした。子どものころ、用もないのに、よく手を上げていたのを覚えています。
お盆の間の3日間は、昼はそうめん、夜は精進揚げというふうに、朝昼晩とお膳をこしらえるおうちがたくさんありました。
お雛様のお膳のような小さな器に、家族と同じ食べ物をお供えします。
仏様にあげるお花をお友達といっしょに摘んだ覚えもあります。もじずりという花、別名をねじばなと申しますが、ピンクのかわいい花が馬橋あたりにも咲いておりました。善福寺川にしても、護岸工事がされておりませんでしたから、平面で、まわりに草がはえていて、きれいでしたね。
精霊流しもやっていたような記憶がありますが、戦争中は、皆食べるのに精一杯で、供物を流す余裕がなかったんじゃないでしょうか。
また、古老のお話では「ところどころにあった灌漑用の堰に、お供物などが溜まることや、戦後は環境上の配慮などでいつのころからか精霊流しはなくなりました。」とも聞きました。
戦争で途絶えてしまった風習がある一方で、戦後、さかんになったものもあります。
小学校で夏に催される盆踊りは、戦後、娯楽のない時代に大いに盛り上がったものです。
東京のお盆は7月ですが、お盆の時期はまだ学校が夏休みじゃございませんから、盆踊りだけは、8月にやって、東京音頭ですとか、春日八郎のお富さんですとか、そんな曲を踊っておりました。
東京音頭というのは郡部の地が合併して、東京市になったのをお祝いするためにできたもので、東京の盆踊りで流れるのはまずこれですね。
それから、実は杉並区制50周年記念のときに作られた杉並音頭というものもあるんです。ぜひどこかの盆踊りで踊っていただけたらうれしいですねえ。 杉並音頭については杉並区役所広報課へ問い合わせて下さい。
※永井荷風の小説『墨東綺譚』には、盆踊りのことが次のように記されています。「東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなったのを祝するために行なわれたように言われていたが、内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃いの浴衣を買わなければ入場の切符を手に入れることができないとの事であった。
それはとにかく、東京市内の公園で若い男女の舞踏をなすことは、これまで一たびも許可せられた前例がない。地方農村の盆踊さえたしか明治の末頃には県知事の命令で禁止せられた事もあった。東京では江戸のむかし山の手の屋敷町に限って、田舎から出て来た奉公人が盆踊をする事を許されていたが、町民一般は氏神の祭礼に狂奔するばかりで盆に踊る習慣はなかったのである。」