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万田サイクル

楓並木と銀杏並木の、二つの自転車屋さん

青梅街道沿い、四面道の交差点をはさんで、二つの自転車屋さんが店をかまえている。荻窪北口大通り商店街 の「サイクルショップ万田」と八丁通り商店会の「万田サイクル」、いずれも1925年(大正14年 )創業の万田自転車の伝統を引き継いでいる自転車屋さんだ。
荻窪界隈でも数少なくなった大正時代の商店長屋の面影を残す店舗、オーディナリー型自転車が目印の「サイクルショップ万田」は二代目の万田勇さん、一方、サイクリング用自転車のデザインをあしらったモダンなビルの店舗で、シルバーメタルのロゴ入り看板の「万田サイクル」は、三代目の万田祐三さんが、それぞれお店をきりもりしている。
自転車は世代をこえて、日々の暮らしになくてはならない生活必需品。荻窪の街の発展とともに歩み、人々の暮らしを支えてきた街の自転車屋さんの歴史とこれからを、二代目、三代目のお二人にうかがった。

「サイクルショップ万田」店頭にて、万田勇さん

「サイクルショップ万田」店頭にて、万田勇さん

「万田サイクル」店頭にて、万田祐三さん

「万田サイクル」店頭にて、万田祐三さん

山あり谷ありの、自転車屋稼業

万田自転車の初代、新太郎さんは東京の青山生まれ。鍛冶職人の見習いや煙草専売工場の職工を経て、東京の淀橋(現在の新宿区西新宿)で万田自転車を創業。その後、先に荻窪で理髪店を開業していた親戚のすすめで、1928年(昭和3年)に一家をあげて移り住み開業した。ちょうど井荻町は土地区画整理事業の真っ最中、町も発展しようとする時期だった。

「移ってきた頃は、荻窪駅北口といっても家もまばら。店の周辺は雑木林や原っぱ、駅北口も貨物専用で空き地だらけ、蝉とり、凧上げ、野球…、よく遊んだが、子供でも仕事は手伝わされた。店員について油とボロを持って、春木屋さんなど自転車のお得意さんを廻り、車体を拭いた。リヤカーのお得意さんは、農家さんだった。夜明け前、淀橋の市場に向かう農家さんに、自転車屋さーん、自転車屋さーんって呼ばれると、親父は渋々出ていったものだ」と勇さん。

自転車も運搬用の業務用自転車が大半の時代、お客さんは街の商店や問屋さん。1台平均50円前後と高価で、日々手入れされ、長年にわたって大切に使用された。むしろ販売後の修理・修繕が主要な仕事だった。やがて街に移り住む人達も増え、万田自転車のお客さんも増えていったが、戦争が始まると自転車業界も戦時下の体制に組み込まれた。

「配給制の頃は、近隣の同業の方が3~4人うちの店に集まって、共同作業所を営んでいた。売るものといってもタイヤくらいしかなく、仕事といったら修理・修繕だった。立川にむかう軍の車が立ち寄って、部品を調達していくこともあった。あそこに行けば手に入るということになっていたんだろうね」と勇さん。

終戦となっても、配給制に変わりはなかった。ガソリンもない時代、自転車の横に原付エンジンを付けた原付自動車が出回り、さらに業務用自転車の役割がトラックにとって変わられる時代となった。万田自転車は将来を考え、自転車に加え、自動車やバイクの販売、修理・修繕と事業を拡張していった。

「復員後、家業を手伝い始めたが、親父が早くに亡くなってしまい、兄弟も多いし、無我夢中で働いた。仕事が終わった夜中、原付エンジンの整備士の勉強をして資格をとった。16歳年下の弟が成長し、仕事を手伝ってくれるようになり、兄弟でがんばった。店の地下に作業場も造った。枕木や風呂屋の薪を調達して内装は自分でやった。地下の作業場は夏は涼しかったけどね」と勇さん。

低迷していた自転車業界にも転機が訪れた。生活習慣の変化から、主に通勤用に業務用自転車を改造した一般用自転車が大流行。次第に価格も下がり、大人用、婦人用、子供用、サイクリング用、スポーツ用など多様化。自転車は生活の一部となっていった。

「自転車のほうは、一時期、貸し自転車もやっていた。貸し自転車で子供達が、三角乗りで遊んでいた時代もあったのにね。新宿副都心の開発の頃(1970年代初頭)から、10年、20年が自転車が一番売れた時代だった。お客さんも一般客に変わり、一般客は街の発展とともにどんどん増えていった。接客は慣れないながら、ただただ親切にまじめにやってきたら数十年がたっていたよ。自動車とバイクの事業は閉じることになったが、修理・修繕が売りの商売のなかでも自転車屋は残るとおもう。うちは娘2人なので、長年一緒にやってきた弟の子が養子に入って継いでくれた。継ぐものがいるのは嬉しいことだね」と勇さん。

万田自転車店頭での家族写真(昭和18年頃)

万田自転車店頭での家族写真(昭和18年頃)

「サイクルショップ万田」地下作業場の作業台

「サイクルショップ万田」地下作業場の作業台

代々受け継ぐ自転車屋の心意気

「戦前、戦後もある時期までは、自転車はメーカーから数百におよぶ部品の状態で納品されていた。組み立てるのがまず自転車屋の仕事。自転車は人の乗るもの。お客さんに合わせて細部まで調整し納め、その後も修理・修繕をつづけるのが仕事だった。親父なんか、鍛冶屋あがりで職人気質、おせじは言わないで、腕で食っていたようなものだった。さすがにわたしの時代は、それだけではやっていけなかったけどね」と勇さん。

「自動車やバイクと同じで、自転車も人の命を乗せて走るものだが、なかなか一般の意識がそうはならない。もちろん、現在でも自転車整備士の試験は、部品から組み立てることから始まるし、自転車屋の仕事は腕でもって乗るひとの安全を守ることにかわりはないよ。『買っていただいたお客さんは、ずっと大切にしろ…』と、わたしも15歳の頃から仕事を手伝ってきて教えられてきた」と祐三さん。

まずお客さんの用途を詳しく聞き、適切な自転車を選び調整し、後々までフォローしていく、また、それができるだけの知識と技術、心を持つことが、万田自転車以来の伝統だ。

「サイクルショップ万田」店内、万田勇さんお手製の自転車部品収納棚

「サイクルショップ万田」店内、万田勇さんお手製の自転車部品収納棚

街と商店街と、ともに歩む自転車屋として

「荻窪北口大通り商店街は、はやくからまとまっていた。1931年(昭和6年)、荻窪駅北口から四面道にかけての青梅街道の拡張工事を記念して、街道沿いに桜並木を植えようと、商店街をあげて運動した。桜ではなく楓になったけどね。終戦直後、やっている店といったら、駅北口の闇市くらい。残った店は半分もなかったが、みなで助け合って、商店街と街を復興させてきた。商店街つながりで、白山神社のお祭りで面倒をみた子供達がそれぞれ跡を継いで、今や、社長や会長。時はたったね」と勇さん。

「お客さんも生まれ育った地域の方が多いし、やりがいがあるよ。近隣の小学校の自転車安全教室で自転車を整備したり、自転車の安全な乗り方とマナーについて、子供達に説明している。自転車が生活の糧のお年寄りなどは、まかせてくれるので、より使いやすいように工夫したりする。子供の頃は、白山神社も荻窪八幡も行ったが、今のところに店を構えてからは、荻窪八幡。神輿も担ぐようになった。打ち水や、銀杏並木の光の祭典 …、八丁通り商店会のイベントにも取り組んでいる」と祐三さん。

二代目、三代目とも、なにより街とそこに住む人達、また、商店街への愛着が、仕事への情熱をささえている。

万田勇さん、商店街の仲間達との旅行、スナップ写真

万田勇さん、商店街の仲間達との旅行、スナップ写真

世代をこえて走リつづける万田サイクル

「50万円もするロードバイクを求めるお客さんもいれば、インターネットで購入した、部品の手に入らないような折りたたみ自転車を持ち込んでくるお客さんもいる。やりつけているから、なおすのはなおすけどね。商売の仕方も変わってきたし、わからないことがあったら、八丁通りの店に相談しているよ」と勇さん。

「自転車はブームだけど、自転車に乗る方も周囲も、安全を守るためのマナー、法、環境が追いついていない。ピストとかブレーキのない自転車を持ち込まれたら、それは注意しているよ。お客さんの要望も様々な時代、ホームページやサイクリングクラブの運営などにも力を入れている。サイクリングは自分の楽しみでもあるしね。部品を取りにいったり、苦手な部分をカバーしたり、荻窪北口大通りの店にもよく行くよ」と祐三さん。

お話をうかがっている間にも、どちらのお店も歩道に自転車をとめ、声をかけていくお客さんがたえない。タイヤの状態、ギアの調子、サドルの座りぐあい…、二代目、三代目とも、丁寧で素早い対応で応える。新・旧万田、二つの荻窪の街の自転車屋さんの走りは、軽快で心地いい。

店舗情報
<サイクルショップ万田> ※2017年9月に閉店しました

<万田サイクル>
住所:上荻2-41-10 電話:3395-3201
営業時間:10:00~7:00/水曜休
最寄駅:JR中央線荻窪駅北口

万田サイクル・サイクリングクラブ 「M.V.P(Manda Verybest Player) 」のチームウェアと万田祐三さん

万田サイクル・サイクリングクラブ 「M.V.P(Manda Verybest Player) 」のチームウェアと万田祐三さん

DATA

  • 取材:井上直
  • 掲載日:2011年11月11日
  • 情報更新日:2021年03月15日