その後、期するところがあり、航空界に復帰。中島知久平(※1)の支援をうけ、1932(昭和7)年1月頃、中島飛行機東京工場正門前の豊多摩郡井荻町上井草1595(現在の杉並区上荻4丁目)に、亜細亜航空機材研究所(※2)を設立。この研究所を母体に、翌1933(昭和8)年4月、亜細亜航空学校と亜細亜航空機関学校を設立した。同研究所と両校は、三位(操縦、整備、機材)一体をなしていることと、飛行場の規模・設備・所有機数などの点から、日本の3大民間航空学校(※3)の1つに挙げられている。
飯沼金太郎とは、杉並区に活動の拠点を置いて、国内有数の民間航空学校・機関学校を設立し、校長として日本民間航空界の人材育成に貢献した人物なのだ。
飯沼は、帝国飛行協会に所属していた1919(大正8)年9月から翌年4月までの8ヶ月間、群馬県にある中島飛行機製作所(※6)が開設した尾島飛行場(現太田市)に出張を命ぜられた。その主な任務は、尾島飛行場に帝国飛行協会専用の格納庫を建設するための工事監督であった。任務のかたわら、尾島飛行場で佐藤要蔵飛行士の指導のもと中島式飛行機の操縦を教わり、また中島飛行機付属の飛行学校(※7)の助教官として操縦教育の手伝いをしている。
飯沼は、この尾島飛行場の出張期間中に、社長の中島知久平の知遇を得たが、後に知久平を「オヤジ」と呼ぶほど親交を深め、知久平の人物と信条に感服、共鳴する。また、同製作所には、中島知久平の弟の門吉(後の監査役)と技術者の佐久間一郎(後の取締役・東京工場支配人)、栗原甚吾(後の取締役)が設立時からいた。その後相次いで、知久平の弟の喜代一(後の社長)、乙未平(きみへい・後の副社長)が入所してきた。知久平はもとより、いずれ中島飛行機の要職を占める人物達と親交を深めたことは、飯沼にとって何ごとにも代え難い財産となった。後に、航空界に再起するために要する莫大な資金捻出や機器調達などの人脈づくりにおいて、大きな力になったことは言うまでもない。
失意の飯沼は、しばらく山梨県下部温泉で療養生活を送った後、かねてから親交のある千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所所長の伊藤音次郎のもとに身を寄せる。そこでは、飯沼と帝国飛行協会時代の同期生の後藤勇吉が客員教官として指導するなか、かつての仲間や、後に日本女性飛行操縦士第1号になる兵頭精(※10)が操縦訓練に果敢に挑戦している姿が見られた。訓練に励む仲間を見ているうちに、飯沼は飛べない寂しさが増してきたのか酒の量が多くなった。
その折に、飯沼が絵を描く趣味があったことを知る中島知久平から誘いがあった。知久平は、飛ぶことに命をかけた豪胆で明朗な飯沼の人柄を愛しており、絵を描く道具一式を用意して群馬の尾島飛行場に招き、良く彼の面倒を見たといわれる。1922(大正11)年から1928(昭和3)年の春頃まで、飯沼は主として油絵を描いて暮らしていた。その間、世間では「ボヘミアンのような生活をしているらしい」などと伝えられたが、いつしかそうした噂も途絶えた。飯沼が航空界に復帰することはあり得ないと思われていたからだ。
しかし、飯沼はその期間に、歩きながら聞ける「ラジオ傘」を1926(大正15)年7月頃に考案。それを日本橋の柳川商店から売り出したところ、かなり流行したといわれており、多才な一面を見せている。
※記事内、敬称略
※1 中島知久平(ちくへい):中島飛行機の創立者で「飛行機王」「巨人」とも称された。衆議院議員、近衛内閣時の鉄道大臣、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣時の軍需大臣、商工大臣を歴任する
※2 亜細亜航空機材研究所:当初の名前は「航空機研究所」だが、ここでは「機材研究所」とする。
※3 3大民間航空学校:当時の航空専門誌による評価。日本飛行学校、名古屋飛行学校、亜細亜航空学校を指す
※4 臨時軍用気球研究会:1909(明治42)年7月設置。陸海軍合同の監督下で、気球及び飛行機に関する研究を行う事を目的とした機関
※5 帝国飛行協会:1913(大正2)年4月発足。社団法人で気球、飛行船、飛行機等の航空事業及び自動車等の普及・発達を図ることを目的とした民間機関。現日本航空協会の前身
※6 中島飛行機製作所:当時は日本飛行機製作所。1919(大正8)年12月中島飛行機製作所に改称
※7 後に、水田嘉藤太を校長とする水田飛行学校となる
※8 在米同胞号:在米日本人の寄付金により製作された飛行機
※9 洲崎(すさき):深川区洲崎埋地。現江東区豊洲
※10 兵頭精(ひょうどうただし):1919(大正8)年11月、伊藤飛行機研究所入所。1922(大正11)年3月、三等飛行機操縦士免状交付。1980(昭和55年)4月、2年越しで入院していた杉並区の救世軍ブース記念病院で逝去
「空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」小暮達夫(AIRFORUM『航空と文化』)
「ひとすじのヒコーキ雲 ―飯沼金太郎の生涯-」小暮達夫(『さくらおぐるま』佐倉市教育委員会発行)
『日本民間航空史話』財団法人日本航空協会
『飛行家をめざした女性たち』平木國夫(新人物往来社)
『巨人中島知久平』渡部一英(鳳文書林)
『日本航空史・明治大正編』財団法人日本航空協会
『佐倉市史 巻4』佐倉市・佐倉市史編さん委員会
『練馬区史』編集兼発行者東京都練馬区
『航空時代 第7巻4号』航空時代社
『中島飛行機物語』前川正男(光人社)
『日本飛行機物語・首都圏編』平木國夫(冬樹社)
『富士重工業30年史』30年社史編纂委員会・社史編簿室
『中島飛行機エンジン史』中川良一・水谷惣太郎共著(酣燈社)
『生きている航空日本史外伝(上巻)日本のルネッサンス』中村光男(酣燈社)
『生きている航空日本史外伝(下巻)日本の航空ミレニアム』中村光男(酣燈社)
『戦前という時代』山本夏彦(文藝春秋)
『航空博物館とは何か?』水嶋英治(星林社)