杉並区立高井戸中学校の校庭に、第二次世界大戦時にナチスの強制収容所で15歳で命を落としたユダヤ人の少女、アンネ・フランクゆかりのバラがある。「アンネのバラ」の愛称で知られるこのバラは、国語の授業で『アンネの日記』を読み、彼女の生涯を学んだ生徒たちの願いに応えて、1976(昭和51)年にアンネの父・オットー氏から寄贈されたもの。以来、平和を願う高井戸中学校のシンボルとなっている。スイスから来た3本の「アンネのバラ」の苗が校庭に根付き、現在のバラ園になるまでには、「平和のバラを枯らしてはならない」という多くの人々の努力があった。バラの歴史を振り返り、現在と未来に向けた取り組みを紹介する。
アンネのバラは、1976(昭和51)年、たくさんの善意の人々の手を経て区立高井戸中学校(以下、高井戸中)にやって来た。当時、国語教諭だった小林桂三郎先生の指導の下、生徒たちの力でアンネの父親オットー・フランク氏よりバラが寄贈されるまでを、関係者の証言と資料でたどる。
泉南中学校の国語授業がスタートだった
アンネのバラが高井戸中に来た1970年代、杉並区で使われていた中学2年の国語教科書(三省堂)には『アンネの日記』が掲載されていた。1972(昭和47)年、区立泉南中学校に勤務していた小林桂三郎先生は、授業の中で生徒たちに、アンネ・フランクに寄せる手紙を書くように呼びかける。ベトナム戦争が激しい攻防を繰り広げていた時代、生徒たちは自分と同世代のアンネの書いた日記に衝撃を受け、戦争や人種差別について深く考える。手紙には、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行った残虐行為への怒り、隠れ家で成長したアンネの前向きな生き方への共感や平和への願いが綴られた。その後、有志で集まった20人の生徒たちの手で、手紙をまとめた文集『その死を胸に』が発行された。
朝日新聞に載せた1通の投書
自分たちの手で文集を作り上げた生徒たちの夢はふくらんだ。「英訳版を作って、オットー氏やアンネ・フランク財団に送り、世界中の少年少女たちと平和の実現のために手をつなぎたい。」この生徒たちの願いを、小林先生は何とか叶えたいと思った。しかし、生徒たちの語学力では十分に翻訳できない。そこで朝日新聞社に依頼し、投書欄に「どなたか英訳を手伝って下さる方はいませんか(泉南中学校3年「アンネに寄せる手紙編集二十人委員会」)」という手紙を掲載して協力者を募った。すると呼びかけに応えて、全国から30数名の善意の人々が翻訳を申し出てくれた。翌年、この英訳版(『Her death in our hearts』)はオットー氏と財団に贈られる。その協力者の中に、後にアンネのバラの紹介者としてオットー氏との仲介役を務めてくれる大槻道子さんがいた。
京都に咲く「しののめ色」のバラ
1973(昭和48)年6月のある朝、朝日新聞の投書欄を見た大槻さんは、生徒たちに宛てて「ぜひ文集を読ませてほしい」という手紙を書いた。大槻さんは、京都にある聖イエス会嵯峨野教会の創設者を父に持つキリスト教の伝道師で、当時、聖イエス会が率いる「しののめ(黎明)合唱団」の一員としてイスラエルで公演を行っていた。大槻さんは1971年、イスラエルのネタニアで偶然オットー氏と出会って以来、氏と親交があり、大槻さんの家の庭には、1972年に日本で初めて寄贈されたアンネのバラが咲いていた。
手紙には、「アンネのお父様は、(中略)…『アンネの形見』と呼ばれているバラの苗木を10本贈って下さいました。バラは、しののめの光のような色をした大変美しい花です」とあり、大槻さんの父が書いた「アンネにささげるレクイエム」の詩が同封されていた。アンネのゆかりのバラが京都に咲いている―この事実は、小林先生の胸に深く刻まれることになった。
(注)「しののめ」とは夜明けの意味。しののめ色は、やや黄味をおびたオレンジに近いピンク色。
1973(昭和48)年、高井戸中学校へ転任した先生は、翌年から引き続き『アンネの日記』の学習に取り組んだ。泉南中での授業経験から、小林先生にはある決意があった。それは『アンネの日記』やナチスによる虐殺を遠い世界のこととして考えるのではなく、第二次世界大戦時、日本がドイツと結託していた事実や戦争に加担していた過去を学び、もっと自国の歴史と照らし合わせて考えてほしい、という願いだった。小林先生は、国語の授業の補助教材として歴史の資料を配布し、生徒たちに「なぜ戦争が起きたのか」を考えさせ、その上で、アンネへ寄せた手紙を書くよう呼びかけた。
より深く戦争と平和について学んだ生徒たちは、その成果をまとめるため、「アンネ・フランクに寄せる手紙編集委員会」を発足させた。こうして、1975(昭和50)年3月4日、42名の編集委員の手で130部の手作り文集『暗い炎の後に』が完成した。「アンネ・フランクについて学習してから、私たちの胸の中にはアンネが住みついた。以来、私たちは戦争・平和・人生などについて、立ち止まって考えずにはいられなくなった。(あとがきより)」文集を読むと今でも生徒たちの息遣いが伝わってくる。完成した翌日には国語の授業で全員が読みあい、数日後、オランダの「アンネ・フランク財団」とオットー氏に文集を送った。
「アンネのバラを高井戸中へ植えたい」
そんな2年生の3学期も終わりに近づいた3月13日。小林先生は、国語の授業中に、ふと「アンネのバラ」の話をした。京都に、オットー氏から贈られたアンネゆかりのバラがあると知り、生徒たちの胸は高鳴った。文集編集委員のW君が手を挙げた。「僕たちの平和のシンボルとして、ぜひそのバラを校庭に植えたい。」その発言がきっかけとなり、「アンネのバラを高井戸中へ」という生徒の取り組みが始まった。
3年生に進級した生徒たちは、「アンネ・フランクに寄せる手紙編集委員会」を再結成した。高校受験を控えた時期だったが32名の生徒が参加。『生きている戦争』と題した父母の戦争体験聞き書き文集作成を決め、同時に、アンネの形見のバラを高井戸中に植えるための熱心な話し合いが行われた。
父母の生々しい戦争体験をまとめる中で、平和への願いのシンボルとして自分たちの手でアンネのバラを育てたい、という生徒たちの思いは高まっていった。1975(昭和50)年6月、編集委員たちは大槻さんに「アンネのバラを株分けしてほしい」とお願いする手紙を書いた。すると、すぐに返事が届いた。生徒の心情に感動したオットー氏が、バラを7月末までにスイスから発送してくれる、とのうれしい知らせだった。
生徒たちはバラの育て方を教えてもらうため、小林先生の助言で、すぐに調布市の神代植物園へ相談に行く。しかし生徒の説明を聞いた園長の第一声は「やめなさい」という意外なものだった。「海外から届く植物は、検疫のために根を洗い土を落としてくる。炎天下に、生まれた赤ちゃんを裸で連れてくるようなもの。育てるのは難しい」という。それでも何とか方法はないか、熱心にたずねる生徒たちに園長はこうアドバイスした。「真夏では根付かないから3月に送ってもらい、都立農業試験場で根付くまで育ててもらったらどうだろう。」
翌日、小林先生と生徒たちは、さっそく立川市にある都立農業試験場と京都の大槻さんに電話した。大槻さんはオットー氏に連絡を取ってくれ、バラは3月の卒業式までに高井戸中に送られることになった。その後、生徒たちは、文集『生きている戦争』130部を完成。11月の文化祭では「アンネ・フランク展」を開催し、アンネのバラを植える花壇の予想模型を展示した。卒業を前にオットー氏にお礼の手紙を出し、バラ到着を心待ちにして過ごした。
スイスから大阪空港、そして都立農業試験場へ
1976(昭和51)年3月19日、バラの到着を待ちつつ生徒たちは卒業式を迎える。そして5日後の24日、ついにアンネのバラが大阪空港に届いた。バラの苗は日本航空の善意により無償で空輸され、世田谷区にある聖イエス会ソフィア教会の牧師・山根元一さんの協力で、大阪から立川市の都立農業試験場に届けられた。スイスから届いた3本の苗はその後3か月間、技師の手で心をこめて育てられ無事に根付いた。6月6日、試験場を訪れた卒業生たちの目には、かわいらしい蕾(つぼみ)をつけたアンネのバラの姿があった。
6月12日、高校生になった生徒たちは、農業試験場から苗を受け取り、電車で高井戸中へ運んだ。偶然にも、その日はアンネ・フランクの誕生日だった。浜田山駅に着いた時、生徒の一人が大切な苗を運ぶ緊張で鉢の一つを落としてしまったが気づかず、近所のお店の人が追いかけて届けてくれたという。3本のバラの苗は、編集委員の仲間たち、卒業生、在校生、教職員に拍手で迎えられ、校庭に移植された。こうしてオットー氏から贈られたアンネのバラは、平和を願う高井戸中のシンボルとして、この地に根付いた。
願いをこめて、このバラを育てていこう
たくさんの人の協力で高井戸中に届いた平和のバラを、どう下級生たちに伝えていくのか。その後も卒業生たちは話し合いを続け、バラの由来と自分たちの決意を示す立て札を花壇の横に設置することにした。当時、彼らの手で書かれた立て札には、こう記されている。
「暗い戦争の炎の中に死んだアンネ・フランクの魂のためにヨーロッパの園芸家がバラをつくり、アンネの父、オットー氏に贈った。それが多くの人々の善意により、この遠い日本の地に根付く。この世の人々が手をつなぎ合って、永遠に幸せを守り続けられるようにと、心からの願いをこめて、このバラを育てていこう。私たちは決してこのバラを枯らしてはならない。1977.4.8 アンネ・フランクに寄せる手紙編集委員会」
今、この看板は無いが、バラを植えた生徒たちの願いは引き継がれ、アンネのバラは見事な花壇になっている。1944年4月5日の日記でアンネは「私の願いは死んでからもなお生き続けること」と書いた。平和を願いながら命を落とした彼女の思いは、バラに託されて今も人々の心の中に生きている。
資料提供:小林桂三郎さん
取材協力:小林桂三郎さん 高原美和子さん 大槻道子さん 聖イエス会ソフィア教会