高井戸にある浴風会は、老人保健・福祉・医療の3つの面で高齢者をサポートする社会福祉法人だ。1925(大正14)年1月15日に、関東大震災の被災老人の援護を目的として、約27,500坪の敷地に病院や礼拝堂など54棟の建物が建設された。
創設時から医療を含む養老事業を行っていた浴風会は、戦時下において米軍の攻撃目標対象外といわれていた。そこに目を付けた陸軍は、1942(昭和17)年9月から1945(昭和20)年7月にかけて施設のほぼ半数を接収した。
接収した施設は陸軍参謀本部に貸与され、看板は「陸軍中央通信調査部」となっていた。だが、実際に使用していたのは特種情報部という部隊だった。
なぜ、部隊名を隠していたのか?それは特種情報部の任務が暗号解読や通信傍受など極秘事項だったからである。1945(昭和20)年8月6日午前3時に原爆投下のためにB29がテニアン島を出発したことも、ここで傍受された。広島に原爆を投下される5時間前のことである。
また、この部隊は暗号解読のほか、ワシントン(アメリカ)、メルボルンとシドニー(オーストラリア)から放送されるニュースを傍受していた。同年8月11日には、シドニーからのニュースでポツダム宣言が受諾されたことも知っていた。特種情報部の持つ資料は最高機密に相当する。ポツダム宣言受諾を知るや、陸軍はそれまで管理していた全機密文書の焼却を決め、現存する本館の3階の部屋で焼いた。『社会福祉法人浴風会(総合老人福祉施設)第317号』によると、8月の室内でのことであり、処分に当たった軍人が「とても熱かった」と当時を語っている。
攻撃目標からは除外されていた浴風会だが、戦後に敷地内から不発弾が発見されたことがある。
『浴風会80周年史編纂委員会ニュース(第11号)』によると、1986(昭和61)年11月6日午後5時過ぎ、現在ケアハウスのある北側の土手で、高圧ケーブルの埋設工事を行っている最中に不発弾3発が見つかった。翌朝、陸上自衛隊第一師団不発弾処理班の3名が派遣されて、その処理に当たった。
発見されたのは全長1メートルの焼夷爆弾で、3発中2発にはまだ火薬が残っていた。7日11時15分にはそれらを自衛隊が小型トラックで持ち帰り、騒動は解決。危険性が少なかったため、職員及び近傍住民の避難措置はとられなかった。
『浴風会創立四十周年記念誌』浴風会
『浴風会八十年の歩み』浴風会
『浴風会80周年史編纂委員会ニュース(第11号)』浴風会
『社会福祉法人浴風会(総合老人福祉施設)第317号』平成23年9月1日
『軍機の内側で』京都新聞2014(平成26)年8月5日