1945(昭和20)年5月24日、死者7名、負傷者30名。同25日、死者55名、負傷者516名。この杉並区最大の被害となった連続空襲で、杉並第六国民学校をはじめ区内の国民学校(今の小学校)8校が全焼した。
当時、杉並第六国民学校2年生だった深澤養三さんに話を聞いた。
「学童疎開から戻ってきたのは12月です。学校がなくなっていました。とても悲しかったです。一面が焼け野原のようでした。学校のあったところは棚田組という会社の製材所になっていて、おがくずが山になっていました。その周りにはバラック小屋が建っていました。でもかしの木が残っていたんです。半分は焼け焦げていて、半分だけが残っている状態でした。ああ、きっと枯れてしまうんだと思いました。」
だが、このかしの木は写真のように現在も杉並区立杉並第六小学校(以下、杉六小)で生き続けている。
現在の杉六小を訪ねると、かしの木は運動場の中ほどにある。この木の位置は時代によって変わってきた。
深澤さんによれば「全焼する前には学校の運動場の隅にかしの木が立っていました(図左)。1本だけなので目立っていました。」今の南校舎付近は、かつて民家が建っていたが、1959(昭和34)年にそこを買い上げてプールを増設。かしの木は相対的に少し中央に近付いたことになる(図中)。
ある卒業生(50歳代)の在学中の記憶によると、かしの木のダメージは幹が大きくえぐれているくらいだったそうだ。空襲で半分焼け焦げた過去があるとはつゆ知らず、「小学生当時は木に雷が落ちたのだろうと思っていた。」と話す。運動会の時には万国旗を張り巡らすロープを巻き付けるなど、現役の大木として重宝されていた。
やがて2012(平成24)年頃に始まった道路拡張工事のため、杉六小は敷地の馬橋通り側の一部を区に提供。敷地脇に立っていた倉庫などを撤去したため、倉庫跡の一部が運動場となり、かしの木はさらに運動場の中央に近付いた。過去には運動会のトラックがかしの木の外周にひかれたこともある。まさに杉六小のセンター的存在なのだ。
そのかしの木に戦後、新校舎が建ったとき、運動場のじゃまになるということで撤去する計画が浮上した。しかし、先生方や地域の人々から「学校が全焼するという災難を乗り越え、生き残ったかしの木を守ろう。」という強い声が挙がり、木は生き続けることができた。
杉六小にとってかしの木はシンボルツリーだ。合唱団や給食のメニューにもかしの木の名が使われ慕われている。夏には「かしの木キャンプ」という地域ぐるみのイベントも開催。そして、卒業アルバムなどで記念撮影するときは、児童はいつもかしの木のそばに集まる。
杉並区最大の空襲を乗り越え、生き延びたかしの木。今はちょっと弱ってしまい支えがないと立っていられないが、これからもずっと元気な葉っぱを付けて、みんなを見守り続けてほしい。
新修杉並区史(下巻)