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入江一子さん

希望に燃えての上京

入江一子シルクロード記念館(美術館)は阿佐ヶ谷駅から徒歩6分、閑静な住宅街の中にある。
200号クラスの大作数十点を中心に、僻地で携帯用の画材で描いたオリジナルデッサンや、紀行文、写真、民族工芸品など膨大なコレクションが展示されたこの記念館、現在93歳の入江さんが2000(平成12)年に自宅を改装して美術館にしたもの。入江さんはもともと女子美の出身でもある。入江さんはどんな学生時代を送られたのだろうか?

女子美に入学したのは1934(昭和9)年ですから、もう70年前になります。当時はまだ「東京専門美術学校」と呼ばれていまして、本郷に校舎があったのですが、母の知人が洋裁学校の先生をしていて、彼女が阿佐ヶ谷に住んでいました。その縁で阿佐ヶ谷に住むことになりました。
それまで私は大陸(現在の韓国・大邱(たいきゅう))にいたので、始めての東京、それもたった一人の上京でした。でも心細いとか、寂しいというようなことは全くなかったですね。それよりも「これから絵を描くことに専念できる」という喜びの方が大きく、希望に燃えていました。
女子美時代には学校では主に人物画を学び、夏休みには水彩絵の具を持って、東伊豆、中伊豆、西伊豆と伊豆半島を隅々まで写生してまわりました。また、週末になると隅田川を描きに出かけていましたね。写生に行くときはだいたいひとりでした。今ならともかく、その頃女性が一人で色々なところに行って絵を描く、ということはあまりなかったんですね。若かったからでしょうね。勇気があったな、と思います。とにかく毎日一心に絵を描いていました。また、私の絵の道を開いて下さった恩師・林武先生を私にひきあわせていただいたのも、ちょうどこの頃です。

絵を描くのは自分の使命

絵ばかり描いていた女子美時代。入江さんは大邱で子ども時代を過ごされているが、それは子どもの頃も同じだったようで、やはり絵ばかり描いていたという。その頃の話をきいてみた。

私の生家は貿易商を営んでいまして、多感な娘時代を大邱で過ごしました。とにかく子どもの頃から絵ばかり描いていましたね。毎日一枚は必ず描いていたのではないでしょうか。楽しみにしていた修学旅行に行かず、絵に没頭していました。
この頃、私の中で大きな出来事がありました。昭和3(1928)年、小学6年生の時に描いた静物画が御大典(即位の儀式)で天皇陛下に奉納されまして。それが新聞に出てたいへんな話題になったんです。とにかく絵ばかり描いていた子ども時代でした。この生活は女学校にすすんでも同じで、クラスメートたちは定期試験の勉強をしているというのに、私は試験の前日もせっせと絵を描きに出かけるという感じでした。大邱の冬はとても厳しく、水彩画が寒さのために凍ってしまうのですが、それでも絵を描きに出かけていました。なぜここまでして絵を夢中で描いていたのか…。その頃は自分でもわからなかったのですが「生きていくことは絵を描くこと」と、もしかしたらすでに自覚していたのかもしれませんね。
そんな絵ばかり描く毎日でしたが、ある夜、不思議な出来事がありました。それは自宅の二階から無限に広がる星空を見ながらふと「世界の果てまで見てみたい」という気持ちが高まるのを感じ、私自身何か宿命的なものがあるような気がしました。それがなんだか当時はわからなかったのですが…。実際にシルクロードの果てまで歩くことになろうとは、その頃は思いもしませんでしたね。とにかく女子美に入るまで過ごしたこの大邱での生活は、私の画家の原点になっているのかもしれません。

恩師・林武先生との出会い

入江さんは毎年独立展に絵を出展されている。これは女子美時代から出展されているとのことだから、70年間出展されていることになる。この創立会員が恩師である林武画伯だった。画家の道が開かれ、現在も絵を描き続けることができたのは先生のおかげだという入江さんに、恩師・林武画伯のことをうかがった。

林先生が創立会員である独立美術展に女子美時代に出品したのがきっかけです。林先生には女子美在学中から昭和50(1975)年に亡くなるまで大変お世話になりました。
独立賞を獲ることはとても難しいことです。先生は「清水の舞台から飛び降りたような気持ちで描きなさい、それくらいの精神力で描かなければ、絵は人を魅了することはできない」と常々おっしゃっていました。
先生の描き方は一度描いたものを一瞬にして全部消してしまいます。そしてまた最初から描いていくのです。「建設・破壊」を何回も繰り返すことになりますが、積み重ねて描いていくことで絵に迫力をもたせていくわけです。昼夜問わずに死にものぐるいで描いてらっしゃいました。林先生には様々なことを学びました。
私自身も描いては消し、描いては消す、という林先生流の描き方に強く影響を受けています。自分の人生を通じていえることは林先生と同じく、物心ついてから今日にいたるまで「絵を第一義」においてきたことでしょうか。一日一枚の絵を自らに課し、一日を有意義にすることは今でも欠かしません。だからここまで絵を描いてこられたのだと思います。やはりこれは林先生という素晴らしい恩師との出会いががあったからこそだと思っています。

シルクロードを旅して30年

シルクロードのスケッチ旅を30年続けて作品を発表されてきた入江さん。
最初は1978(昭和53)年、日中友好美術教育訪中団の一員として、日中国交回復直後の北京に行ったことがきっかけだそう。当時62歳。それから30年、92歳まで入江さんのシルクロードのスケッチ旅は続いた。ここまで入江さんがシルクロードに惹かれるのはなぜなのか?

私は30年間にわたってシルクロードのスケッチの旅を続けてきました。改めて作品と訪問地をたどると、日本、中国、中近東、ヨーロッパを旅したことになります。なぜそれほどまでにシルクロードに魅せられたのか…。ひとつは娘時代を過ごした大邱や中国・ハルビン、チチハルへの郷愁、その土地に暮らす人たちが守り続けてきた文化や、素朴で美しいプリミティブな魅力の虜になってしまったからだと思います。もうひとつ、これは私の絵の原点になっている、「嫩江(ノンコウ)から見た赤い夕日」との出会いをお話したいと思います。
女子美を卒業して、しばらく大邱に戻っていたときのことです。その頃、満州のハルビンとチチハルで個展の要請があり、絵の具や額縁など大きな荷物をもち、私は汽車に乗りました。ハルビンを出ると、一木一草もない大草原が続くのですが、そこは雄大な夕日が落ちていきます。嫩江という川を通った時、川面は血を流したような夕日で染まり、小舟が一隻浮かんでいました。それはもう言葉にいいあらわせないくらい、大変美しい光景でした。
自然の雄大さを目の当たりにして、私は「これはとても絵には描くことができない、この風景の前では私は何もできない」と思いました。この真っ赤に染まった風景との出会いは、私を絵の原点に立ち返させてくれたような気がします。それを描いたのが「嫩江の赤い夕日」です。私の絵の原点にはこの時に見た嫩江の川面が真っ赤に染まった風景との出会いがあります。この赤い夕日を追い求めることから私のシルクロードの旅が始まったのかもしれません。

記念館には古き良き時代のシルクロード、美しく雄大なスケッチ、素朴で底抜けに明るい住民たちの楽しげな歌や踊り、市場の雑踏、羊の群れ等、様々な絵が巨大なキャンパス、スケッチなどで描かれている。
素敵なスカーフを頭かぶり、ファッショナブルな衣装と、エレガントな小物を身につけた入江さんは、絵について話し出すととまらない。旅先でのエピソードや苦労があったということがこちらにも伝わってくる。そんな姿は失礼ながらとても93歳には見えない。
最後に杉並区の中にある大学、女子美のご出身ということで、女子美の学生はもちろん、これから絵や美術に関する仕事をする方へのメッセージをきいた。

「とにかく、あきらめないでやり続けることです。必ず道が開かれると信じてやっていれば、前にすすむことができます。私は絵を描くこと以外には全く考えたことがありませんでした。」

まだまだ現役の入江さん、次回はどんな作品を発表されるのだろうか。楽しみに待ちたいと思う。

▼入江一子シルクロード記念館

入江一子 プロフィール
画家。 1916年韓国・大邸生まれ。 小学6年生の時に描いた静物画が昭和の御大典で天皇に奉納されるなど早くから才覚を現す。1938年女子美術大学卒業後、洋画家・林武画伯に師事し、以降、独立美術協会会員、女流画家協会委員(創立会員)として画壇をリードする、女流画家の第一人者である。シルクロードに魅せられ、1970年代より今日まで一貫してシルクロードの大陸的な風物や辺境に生きる人々を描く。斬新な構図と明るい色素に富んだ大らかな筆づかいの画風で独自の世界を確立する。

※入江一子さんは2021(令和3)年8月にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並のアートスポット>入江一子シルクロード記念館

DATA

  • 住所:杉並区阿佐谷北2-8-19 入江一子シルクロード記念館
  • 最寄駅: 阿佐ケ谷(JR中央線/総武線) 
  • 取材:高橋 貴子
  • 撮影:チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2009年07月02日
  • 情報更新日:2021年08月27日