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運命の宰相・近衞文麿と荻外荘

創建時荻外荘(昭和2年頃)(個人蔵)

創建時荻外荘(昭和2年頃)(個人蔵)

昭和史に登場する人物たちが住んだ区内の邸

最近、手記や秘録が日の目を見て日本の近現代史の見直しがなされている。事変や戦争に明け暮れした昭和10年代の杉並には、歴史に残る人たちの邸が散在していたことを記録に留めておきたい。

例えば、2・26事件で暗殺された陸軍教育総監渡辺錠太郎大将の上荻2丁目の私邸。旧満州帝国皇帝溥儀(ふぎ)の実弟愛新覚羅(あいしんかくら)溥傑(ふけつ)のもとへ政略結婚の形で嫁いだ嵯峨實勝公爵の長女浩(ひろ)が結婚式場へと出発した大宮1丁目の祖父の別荘嵯峨邸(現杉並区立郷土博物館所在地)。
農政学者で後に政界入りし、近衞首相の盟友で国を挙げて戦争遂行するための新体制・大政翼賛会の事務総長を勤められた有馬頼寧の荻窪の私邸。そして、これから紹介する近衞文麿首相の邸であった荻窪2丁目の荻外荘(てきがいそう)などを挙げることができる。

ここでは、激動の昭和10年代から敗戦までを駆けぬけていった運命の政治家・近衞文麿と戦争とを杉並の地にあった荻外荘にちなんで、ほんの断片を取り上げるものである。

荻外荘 「森泰樹著 杉並風土記 杉並郷土史会発行」

荻外荘 「森泰樹著 杉並風土記 杉並郷土史会発行」

近衞文麿総理の誕生と戦争の勃発

近衞文麿(1891~1945)は、華族の筆頭の家柄であった近衞家の長男に生まれ、長じてマルクス主義経済学者河上肇に惹かれて東京大学から京都大学法学科へ転学するなど当時の社会主義的な思想に傾倒したが、後に貴族院議員として政界入りする。やがて貴族院議長から嘱望されて総理大臣に就任(1937)するのであるが、ここに至る国内の社会情勢を紹介しておこう。

ニュ-ヨ-クの株式大暴落(1929)に端を発した恐慌はわが国経済を直撃した。深刻な不況と先行きの見えない閉塞感から台頭した右翼社会主義思想が軍部や官僚にも浸透し始めた。
天皇を戴き社会主義を標榜する陸軍皇道派の血気盛んな将校達が政府高官らの襲撃を指揮してク-デタ-を引き起こした。2・26事件(1936)である。これは陸軍内部の覇権抗争に加え政権支配層が抱えていた内外政策の行き詰まりに暴力をもって改革を企てた。

ク-デタ-が鎮圧されて見ると、軍部は鎮圧の力を背景として政治全般に対する発言権を一層強める結果となった。事件後の組閣には軍部の介入を抑えられる総理の人選に苦慮し、近衞文麿の名も上がったが、本人はこれを固辞した。相次いで政権に担った広田弘毅(外交官)、林銑十郎(陸軍大将)両内閣が政党各派の反撃にあって短命に終わると遂に、近衞に組閣が命ぜられた(1937年6月)。元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)らは、近衞文麿の人柄や思想的なものには必ずしも飽き足らなかったけれども、広く国民的な人気があり、この組閣には明るい期待が寄せられた。

しかし、近衞内閣発足の1ヵ月後に中国大陸・盧溝橋(ろこうきょう)において軍事衝突が発生した(1937年7月)。初め、近衞内閣は戦線不拡大の方針を決めながら軍部の圧力に折れて大陸への派兵増強を決議し、これを端緒として瞬く間に日中戦争へと拡大させて行った。一方内政では国家総動員法など国民全体に戦時体制を敷くための諸法案を大論戦の末に議会を通過させた。近衞総理はこの重大な時局を乗り切るには自らの辞任か内閣改造かと悩みに悩んで、疲労から荻外荘の病床に暫く伏せた。荻外荘には閣僚をはじめ軍部、政財界、皇室関係者が見舞いに訪れ、政権継続を懇望した。おって内閣改造を断行し戦争処理に専念したが、和平工作に成果を得られず1939年1月平沼騏一郎内閣に引き継ぐことになる。

▼関連情報
杉並区ホームページ 荻外荘の刊行物(外部リンク)

関連書籍

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2021(令和3)年発行、文化財シリーズ48『近衞文麿内閣関係者が語る 諸家追憶談』(杉並区教育委員会)

2021(令和3)年発行、文化財シリーズ48『近衞文麿内閣関係者が語る 諸家追憶談』(杉並区教育委員会)

荻外荘を訪れた人物たち

軍部は、ヨ-ロッパにおいてドイツ軍が英・仏・オランダなど周辺諸国を電撃的に制覇したのに眼を見張り、内外の時局処理に滞っていた米内光政内閣を退陣に追い込み、再び近衞文麿を総理に担ぎ上げた(1940年7月)。近衞は就任が決まると、荻外荘に大臣候補者である松岡洋祐(外相)、東條英機(陸相)、吉田善吾(海相)を呼び組閣と内閣の方針を事前に話し合った。

第二次近衞内閣は発足するや早々に荻外荘での会談を基に内政外交の重大方針を決定し、大東亜新秩序建設と強力な政治新体制の確立を表明した。
中国大陸の戦線の拡大と関係安定交渉を並行させつつ、大東亜新秩序の名のもとにヨ-ロッパ諸国が領有する南太平洋諸島の天然資源獲得に踏み切り、懸案であった日独伊三国同盟の締結を果たした(1940年9月)。後に米英諸国を相手取って戦争する火種を残すことになった。

国内の政治新体制論は、すでに総理就任前から近衞文麿の人気を利用して、ナチスドイツに習うかのように親軍新党へ一国一党を構想する流れが起こりつつあって、軍部、政・財・官界はそれぞれの思惑から主導権の掌握に動いていた。このため紆余曲折の末に、近衞内閣成立後は新党運動から政府主導の精神的な新体制としての大政翼賛会の形に収まってしまった(1940年10月)。会の綱領はまとまらず、宣言文も発会前夜に荻外荘を訪れた初代事務総長有馬頼寧と深夜2時まで論じたが、まとまらないまま式に臨んだと事務総長が回顧している。
近衞文麿の勇気と粘りの不足ゆえに政治新体制も内務省の全国的補助機構に終ったと評されている。

平成25年杉並区へと移管された荻外荘の様子

平成25年杉並区へと移管された荻外荘の様子

太平洋戦争回避への執念とエピソード

このほど新聞紙上に、終戦直後に米戦略爆撃調査団が行った近衞文麿の尋問調査記録が英国で見つかったと報じられた。近衞が1941年当時、日米開戦の回避を巡る政府部内の意見対立を述べている。「戦争をうまく終わらせる唯一の方策は仲介者として米国の力を借りることと認識したが、日米交渉の中で(鍵となる)中国からの撤退問題をめぐる意見対立」があり東條陸相等を説得できず遂に活路を見出せなかったことがこの報告書からも判る。

荻外荘で繰り広げられたこのあたりの事実は壮絶なものが想像される。1941年10月12日近衞総理は東條陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁を私邸に呼んで戦争回避を説き、論じ、さらに14日、閣議に先立ち東條陸相を官邸に呼んで中国撤兵の再考を求めた。閣議においても陸相の妥協はなく終わった。そして16日第3次近衞内閣はなお戦争回避を模索しつつ総辞職し、東條英樹内閣が成立する。東條内閣発足後も日米交渉は続けられたが、進展は見られず太平洋戦争に突入する(1941年12月8日)。真珠湾奇襲攻撃の戦果は人々を狂喜させたが、この日近衞は華族会館で細川護貞に「えらいことになった。僕は悲惨な敗北を実感する。こんな有様はせいぜい2、3カ月だろう。」と語ったという。

その後、戦争末期敗戦色濃厚となって近衞文麿は和平を探り秘密裏に各方面に行動を続けたため、軍部から要注意人物として訪問者を含めて憲兵の監視下におかれてしまった。
この頃のエピソ-ドがある。近衞は1944年7月栃木市に疎開中の作家・山本有三を至急電報で呼び寄せ、東條暗殺計画を打ち明け、山本にその声明文を書いて貰いたいと打診した。その話を断ってしまうのだが、この事実を山本有三は「濁流 雑談近衞文麿」に詳しく書いている。

近衞邸の応接間

近衞邸の応接間

敗戦と荻外荘の主・近衞文麿の死

1945年8月15日、太平洋戦争は悲惨な結末をもって終った。占領下のわが国の存続と再興を考えつつ近衞文麿は政治家として最後まで行動し続けたが、戦争犯罪人容疑者に指定され巣鴨拘置所に出頭の日、自らの命を絶ってしまった。

かつての秘書官高村坂彦に「戦犯容疑者として裁判をうける屈辱に堪えられない」と語り、また新聞記者には「戦争前に軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動家とののしられ、戦争がおわれば戦争犯罪人だと指弾される。僕は運命の子だ。」と語ったと言われる。

さて、この近衞のお気に入りの荻外荘とは、以下森泰樹著『杉並風土記』上巻の荻外荘の記事を参照させていただくと、大正天皇の侍医入澤博士が大正の初期に買い求めたもので、善福寺川北岸の南斜面の高台にあって、川の両岸はきれいな田んぼで、はるかに富士の霊峰を眺める景勝地にあったと言う。近衞はこの場所を昭和12年の近衞内閣組閣の頃入澤氏から購入し、「荻外荘」は重臣西園寺公望によって名付けられたそうである。戦争の裏舞台としてその建物の一部は今も残っており、戦後一時期吉田茂総理が娘和子と共に住んでいた。

また、1960年に荻外荘の応接間など邸の一部は豊島区巣鴨の天理教教務支庁の敷地内に移築され現存している。

昭和史の中の近衞文麿を改めて考えて見ようとされる向きには詳しい文献に触れて頂ければ幸いである。

※2016(平成28)年3月1日に「荻外荘(近衞文麿旧宅)」が国の史跡に指定されました。詳しくはこちらのサイトをご覧ください。
杉並区役所ホームページ>国指定史跡 荻外荘(近衞文麿旧宅)(外部リンク)

豊島区巣鴨の天理教教務支庁の敷地内に移築された荻外荘の一部

豊島区巣鴨の天理教教務支庁の敷地内に移築された荻外荘の一部

DATA

  • 出典・参考文献:

    遠山 茂樹・今井 清一・藤原 彰著『昭和史』岩波新書
    岡 義武著『近衞文麿-運命の政治家-』岩波新書
    山本 有三著『濁流 雑談近衞文麿』毎日新聞社
    戸川 猪佐武著『近衞文麿と重臣たち昭和の宰相 第2巻』講談社文庫
    森 泰樹著『杉並風土記 上巻』杉並郷土史会

  • 取材:原田 弘
  • 掲載日:2006年08月16日
  • 情報更新日:2024年10月10日