アン・ヘリングさん

子供向け浮世絵版画の世界

すごろく、福笑い、めんこ…懐かしい紙製のおもちゃたち。これらは「おもちゃ絵」と呼ばれ、江戸時代、18世紀半ばにその文化の花を開かせた。木版画による多色刷りの技法が生まれ、浮世絵がブームとなる中、「おもちゃ絵」もさまざまなものが考案され、売られた。しかし、「おもちゃ絵」はれっきとした浮世絵版画でありながら、実用的(使い捨て)であることなどから、近年までその価値をあまり見いだされてこなかったという。
アン・ヘリングさんは、そんな「おもちゃ絵」を数多く収集し、出版・印刷に関する児童文化史を研究している。アメリカで生まれ、学生時代に日本語を学び、来日。長く荻窪に暮らし、杉並区立図書館協議会委員を務めたこともあるヘリングさんに、おもちゃ絵の魅力や杉並での思い出などを伺った。

アン・ヘリングさん(写真提供:アン・ヘリングさん)

アン・ヘリングさん(写真提供:アン・ヘリングさん)

文楽との出会い

「生まれ育ったオレゴン州ポートランドは、極端な暑さ寒さもなく1年中穏やかで、私にとって地上の極楽ともいえるところです。街には素晴らしい図書館と美術館がありました。両親が本好きだったこともあり、私は図書館で育ったようなものです。」
子供の頃からさまざまな本に囲まれ、世界中に興味があったというヘリングさん。日本文化との出会いは高校生の頃。「社会科の授業で太平洋の周りの国々を学ぶ時間があって、日本のお芝居、歌舞伎、能、狂言、そして文楽(※1)を知りました。当時、文楽は今にも途絶えてしまいそうだと聞いて、その前に観たいなぁと思っていたら、1962(昭和37)年のシアトル万博で大阪・文楽座の初海外公演があり、観ることができました。素晴らしかった。太夫(たゆう)の堂々とした語りを聞いて、少しでも言葉が分かるといいのにと思いました。」
高校を卒業後、入学したワシントン大学の東洋学部で、偶然にも日本語特訓クラスの生徒募集があり、迷わず応募。1日7時間の集中授業を受ける。その後、奨学金で日本に留学する機会に恵まれ、東京へ。2年後、卒業資格を取るために帰国するも、もっと勉強を続けたいと再び来日した。

※1 文楽(ぶんらく):三味線の伴奏と太夫(語り手)による「浄瑠璃」と、3人で1体の人形を操る「人形」が結びついた日本固有の人形劇「人形浄瑠璃」のこと。大阪の文楽座が有名となり「文楽」が「人形浄瑠璃」の代名詞になった。2003(平成15)年、ユネスコの世界無形遺産に登録された

ヘリングさん3歳の頃(写真提供:アン・ヘリングさん)

ヘリングさん3歳の頃(写真提供:アン・ヘリングさん)

好奇心からのめり込んだ「おもちゃ絵」

日本での新生活に選んだ街は荻窪だった。「東京には歴史ある古書市(※2)がいくつかあります。一番有名なのは神保町にある東京古書会館の古書市ですが、荻窪古物会館で開かれていた古書市もその1つです。初めて行ってすっかりとりこになって、そこから歩いて5分の所にアパートを見つけて住むことにしました。」ヘリングさんにとって幸せな古書市通いの日々が始まる。
「日本のありとあらゆることを学びたいと勉強するうちに、面白いなと思ったのが少年少女のための書籍の歴史でした。本を求めて古書市を探検しているときに、”のりしろ”みたいなものがいっぱいぐにゃぐにゃしている版画を見つけて“えーこれ何?”と思って。少しずつ、それが”おもちゃ絵”の1つだと分かってきました。」大学で日本の木版画や浮世絵については学んだが、”おもちゃ絵”のことは知らなかった。「こんな面白い世界、どうして誰も教えてくれなかったんだろう。」そんな好奇心から、「おもちゃ絵」にのめり込んでゆく。「自分で調べるだけでなく、児童文学研究者の瀬田貞二先生(※3)と知り合いになり、いろいろ教えていただきました。それから現在まで、日本における少年少女の書籍やおもちゃ絵などの後を追っています。」

※2 古書市:組合に加盟している複数の古本屋が同時出品する古書即売会。一般の人も購入できる。以前は東京都古書籍商業協同組合・中央線支部の即売会が荻窪古物会館(売却され現在は駐車場)を借りて開催していたが、現在は高円寺北にある西部古書会館で月に数回行われている

※3 瀬田貞二(せたていじ):児童文学作家、翻訳家、児童文学研究者(1916年-1979年)

高円寺北にある西部古書会館。即売会には毎回、多くの人が訪れる

高円寺北にある西部古書会館。即売会には毎回、多くの人が訪れる

古書だけでなく、古地図や古い絵葉書などさまざまなものが並ぶ

古書だけでなく、古地図や古い絵葉書などさまざまなものが並ぶ

ハサミでチョキチョキ

ヘリングさんが発見した”のりしろ”みたいなものがいっぱいぐにゃぐにゃしている版画とは、組上げ灯籠(くみあげとうろう)のこと。上方では立版古(たてはんこ、たてばんこ)とも呼ばれ、版画に描かれた人物や家屋などを切り抜き、組み立てて遊ぶ。
江戸時代から大正時代中頃まで、子供の夏の遊びとして流行し、出来あがったものは夕涼みの床几(※4)の上などに飾っていた。お盆の供養に作られる灯籠をおもちゃ化したものが起源ともいわれている。
絵柄は芝居の一場面や、観光名所、祭の風景などいろいろあり、当時のはやりや世相を知ることができる。切り抜かれる前のものもデザイン的に美しく、作ってみたくなるワクワク感がある。「浮世絵というと写楽、歌川豊国、鈴木晴信(※5)を連想する人もいるでしょうが、これだって立派な浮世絵です。当時はこれらが豊富に、当たり前にありました。まず、大坂、京、それから江戸で売られました。地方から都会へ出かけ、お土産として買われたものもあるでしょう。富山の薬売りが“おまけ”として配ったものもあります。組上げ灯籠は、ハサミでチョキチョキして組み立て、飾ったら捨てられちゃう運命なので、今も残っているものは奇跡的。」
ヘリングさんにとって、「おもちゃ絵」のコレクションや研究は「あまり知られなかった人類の文化の一部分に少し明かりを照らすこと」だという。「みんなに知ってほしいけど、知られたくない側面もあります。みんなが買おうとすると値段がどこまで上がるか分からないので。」

※4 床几(しょうぎ):庭や露地に置いて月見や夕涼みに使う細長い腰かけ

※5 写楽(しゃらく)、歌川豊国(うたがわとよくに)、鈴木晴信(すずきはるのぶ):江戸中期に活躍した浮世絵師

上:組上げ灯篭「忠臣蔵両国橋引上之図組上五枚続」を組み立てたもの。下:写真上の部分(共に所蔵・複製組立者・写真提供:Tony Cole)

上:組上げ灯篭「忠臣蔵両国橋引上之図組上五枚続」を組み立てたもの。下:写真上の部分(共に所蔵・複製組立者・写真提供:Tony Cole)

「歌舞伎坐新狂言牡丹燈籠組上三枚続き」の1枚。上部は出来上がり図。「そうとう器用でマニアな人でないと作れないものもあります。そういう人が大勢いたんだと思うと面白い」(ヘリングさん)

「歌舞伎坐新狂言牡丹燈籠組上三枚続き」の1枚。上部は出来上がり図。「そうとう器用でマニアな人でないと作れないものもあります。そういう人が大勢いたんだと思うと面白い」(ヘリングさん)

本に囲まれて

現在は多摩市に暮らすヘリングさん。杉並区にはいろいろな思い出があるという。1982(昭和57)年から1992(平成4)年までの間務めた、杉並区図書館協議会(※6)の委員もその1つ。「不思議なご縁で。図書館のことで役に立つなんて、この上もなくうれしかったです。委員を務めてみて、区民の皆さんにもっと図書館を精神的にも具体的にも応援して欲しいと感じました。私の生まれ育ったポートランドには図書館の分室がたくさんあって、誰もが歩ける距離内に図書館が存在します。日本でも、もう少し図書館に重点おいてほしいなと思います。」
図書館、古書市、ヘリングさんの人生の傍らにはいつも本がある。本に囲まれた生活はヘリングさんにとって、故郷同様、地上の極楽なのかもしれない。

※6 杉並区図書館協議会:図書館サービスの成果及び達成度を明らかにし、効率的かつ効果的な杉並区立図書館の運営に資するため、図書館の経営評価その他の図書館政策について、杉並区立中央図書館長の諮問に応じるとともに、意見を述べ、又は提言を行うもの(杉並区立図書館ホームページより)

取材を終えて
いつか自宅でコレクションの「すごろく大会」を開くのが夢だというヘリングさん。「使わなければ作った人の考えが分からない。見ているだけでは“きれいな絵”で終わってしまう。でも、実際にどこからどこへ進んでとやってみると、”あがり”の寸前で“ふりだし!”あーあー!」いつまでも好奇心を失わず、子供のように語る姿が印象的だった。

アン・ヘリング プロフィール
1940年、アメリカ生まれ。法政大学名誉教授、児童文化史研究家。元杉並区図書館協議会委員、元東京都立中央図書館協議会委員。1973年、日本児童出版文化研究により、モービル児童文化賞を受賞。著作に『江戸児童図書へのいざない(くもん選書)』(くもん出版)、『千代紙の世界』(講談社インターナショナル)など多数。現在、自分のルーツである祖先について執筆中。


<取材協力>
東京都古書籍商業協同組合、西部古書会館

愛猫のコロさんと

愛猫のコロさんと

子供のいたずら満載のすごろく”ふりだし”部分。「これだけ文字があるものは読めないと遊べないので、当時の都会の識字率は高かったと思います」(ヘリングさん)

子供のいたずら満載のすごろく”ふりだし”部分。「これだけ文字があるものは読めないと遊べないので、当時の都会の識字率は高かったと思います」(ヘリングさん)

1988年出版の著作。残念ながら現在、絶版となっている

1988年出版の著作。残念ながら現在、絶版となっている

DATA

  • 出典・参考文献:

    『江戸児童図書へのいざない(くもん選書)』アン・ヘリング(くもん出版)
    『立版古 江戸・浪花 透視立体紙景色』肥田皓三、アン・ヘリング、西岡文彦、高橋克彦(Inax出版)

  • 取材:坂田
  • 撮影:坂田
  • 掲載日:2016年04月25日
  • 情報更新日:2021年03月11日