2022(令和4)年、『父のビスコ』が第73回読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞した作家・エッセイストの平松洋子(ひらまつ ようこ)さん。東京女子大学在学中からスタートした作家活動は「人間を書きたい」という思いがテーマ。週刊文春の連載コラム「この味」をはじめ、食に関する著作が豊富だが「食べ物のことだけを書いているつもりはないんです」ときっぱり。食を書くのはそれが「人間にとって身体性をともなうダイレクトなテーマ」だから。
1976(昭和51)年に進学のために上京してから、40数年間ほとんどを過ごす杉並区西荻窪は、生まれ故郷の岡山県倉敷市に続く「第二のホームタウン」。「街と生活が直結しているところ」が魅力で、昔も今も変わらないと語る。
思い入れが深い西荻窪について、平松さんに話を伺った。
東京女子大学進学のため上京して最初に住んだのは東京都国立市。西荻窪とは、まず学校に通う街として出合いました。とにかく街の中に、今まで知らなかった多様な文化があることが衝撃的でした。「ほびっと村」3階のプラサード書店(現ナワ・プラサード)には大学の図書館にはないタイプの本がたくさんあって。今もある古い喫茶店にも当時から通っていました。大学生にとっては、「こけし屋」は少しハードルが高かったのですが、思い立って1人で行ってみた日があるんです。メニューを見たら、本のなかでしか知らなかった「クレープシュゼット」があった。早速頼んだら、ベテランのウェイターさんがシルバーのカートで持ってきて、コアントローというリキュールをかけるとシュッと青い炎が上がって!まるで物語の中にいるみたいで、感激しました。今でも忘れられない思い出です。
他にもロック喫茶や、西荻ロフトなどのライブハウスで、サブカルチャーの息吹をたっぷりと浴びました。
70年代から80年代にかけての西荻窪は、例えば新宿など他の街にも多様な文化はあるけれど、それがよりギュッと凝縮された空気が濃厚でした。学校で教わらないことを西荻窪という街に教えてもらったという思いがあります。
1980年代には高円寺、阿佐谷でも数年間暮らしました。子育てと仕事の両立で精一杯の時期だったので、おしゃれな喫茶店とかにはほとんど縁がなくて(笑)。
子供が通っていた保育園の保護者の方々と仲良くなりました。地元の商店の方や居酒屋さん、看護師さんなど、いろいろな職業の方々と子育てを通じて話し合ったりして、「地域の暮らし」というのはこういうことなんだなと学んだ時期でした。仕事をしていると知り合いが同業者に偏りがちですが、地域の人々と深く交流するようになって、自分自身の成長にもつながりました。
「座・高円寺」が建っている辺りに子供が通っていた保育園があったのですが、今でも中央線に乗っていてそこに差し掛かると必ず見ちゃうんですよね、感慨深くて。
以前、西荻窪を「パリみたいな街」と書いたら、肩入れし過ぎだと苦笑されちゃったりして(笑)。パリって交通機関を使わずに歩いて移動できる街で、私にとって西荻窪もそう、という意味だったんです。緑も川もあるし、どこまでも歩いて行ける街だなあ、と日頃から実感しています。
それと、個人店で成り立っている街というのも重要ですね。西荻窪の人って、お肉はここ、お魚はここって、細かく買い歩く傾向があって。お店にとっても「お客さん=西荻住民」という意識がある、生活者の街なんですよね。街と生活がとても近いというのは、人の営みとして自然なことだと思います。私自身も大学時代からずっと暮らしているので、もはや自分の日常と街が完全に一致しているというのが実感です。
西荻窪って生きたいように生きている人たちが多い街だと思います。いろいろな人を受容する幅があるというか、多様な空気が醸成されている街。今って、生きづらさや息苦しさを感じている若い人も多いと思いますが、自分の物差しで生きられる街にいると何か気持ちが楽になれるんじゃないかしら。チェーン店や商店街ではなく、あちこちに点在する個人商店によって街が成立していることにも通じると思うのですが、この街は、自分の目線で暮らせるんですよね。老若男女問わず、さりげないけれど個人のファッションにもそれぞれの佇(たたず)まいがあるように思います。
私は、社会や地域は一つの方向で成立しているものではなく、多様な人と考え方に触れることが大事だと思っています。西荻窪にはそれがある。偏りがないのが西荻窪のいいところですね。
作家ならではの視点と生活者としての実感が込められた話が聞けて、西荻窪の魅力を再発見できた。それを語る平松さん自身のキビキビとした人柄も印象的。西荻好きには平松さんのエッセイをぜひ勧めたいし、平松洋子ファンにはぜひ西荻窪を訪れてもらいたいと思う。