徳川幕府の式楽の伝統を継承する大蔵流狂言 山本東次郎家(※1)の四世として、狂言の公演・普及活動に努める山本東次郎(やまもと とうじろう)さん。重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、杉並名誉区民でもある。
活動拠点である杉並能楽堂(※2)にて、これまで歩んできた道のりや、杉並への思いなどを伺った。
子供の頃の杉並
私は1937(昭和12)年にここ(杉並区和田)で生まれて、86年間ここにおります。戦前は、今の立正佼成会(和田2丁目)辺りは畑と田んぼで、小川がさらさら流れ、レンゲ畑が続いていた。現在の環七は狭い道で車はほとんど走らず、牛や馬が車を引いていました。
幼稚園に行くようになって初めて、ひょっとしてうちは特殊なことをやっているのかなと感じたんです。友達に「お舞台がさ」なんて言うと「なんだそれ」って言われて。うちに来る男性は皆、能や狂言をする人ばかりだったので、世の中の人は全部こういうことをやっているんだと思っていたんですね。
初稽古は5歳(満4歳)の誕生日です。5月5日なものですから、出入りの職人さんがこいのぼりを揚げてくれて、たなびいているのを見ながら住まいから舞台に来たのをはっきりと覚えています。新しい着物とはかまを付けて、新しい扇を渡され、父から「今日から稽古だぞ」と言われて始めました。今まで遊んでいた舞台がまったく別のものに感じられて、差し込んでくる木漏れ日の丸い光がポンポンと床の上にあったのがとても印象的でした。
それから毎日稽古が続き、1年経って初舞台。「痿痺(しびり)」という狂言をやりました。戦争で焼けてしまいましたが、赤坂、溜池、水道橋、矢来、四谷、高輪、御徒町、都内のほとんどの舞台に出演しました。
※戦時中の稽古・公演、疎開の話は以下に掲載
すぎなみ学倶楽部 歴史>戦争体験>山本東次郎さん
1945(昭和20)年4月に筑波の伯母の家に疎開しましたが、終戦後の9月には呼び戻されました。疎開先で遊びほうけていたので、たった5カ月の間にそれまで教わっていたことをすっかり忘れてしまったんですね。父は焦ったのでしょう、鬼のようになって地獄の稽古になったんです。長時間でもできるまでやらされる。特に夏休みは、午前中は宿題、午後は日が暮れるまで稽古でした。庭に面したガラス窓の向こうにアゲハチョウが飛んでくるのが舞台から見えるんです。自分はこんなに束縛されてつらい稽古をしているのに、チョウは何て自由なんだろうと思って憧れましたね。
とにかく教わったものを忘れるのが最もいけないっていうことです。その時、必死になって覚えたことは今でも体に染みついているので、86歳の今もこうして舞台ができるのですが、子供の頃にはそんなに厳しくされる意味なんてわかりませんからね、本当につらかったです。
高校2年の時に狂言をやめたいと思ったんです。狂言が軽視されていた時代でした。能のシテ方が主催する公演ばかりでしたので、寸劇みたいな曲しかやらせてもらえず、いくら難しい曲を稽古しても実際には演じる機会がないんです。むなしいですよね。父に「弟たち2人が跡を継げるし、僕は自由にさせてくれ」って直談判したら、なぜか怒らずに「今までおまえにご先祖さまから預かってきたものを渡してきた。ご先祖さまに報告してからやめろ」って。
そこで、上野の谷中にあるお墓に行って、夕方になるまでいろいろなことを考えました。墓石に戒名が書いてあるでしょ。この人たちもみんな、やっかいな狂言なんてものを背負って生きて死んでいった。私一人がわがままを言って捨てちゃうわけにはいかないかなって思ったら、なんだか無性に悲しくなって。父の何か寂しそうな背中も思い出されて。
家に帰って「やります」って。「ただし、一生を懸けられるものにしたい」とその時はっきりと思い直しました。それから改めて狂言の意味を見直したり勉強したりしているうちに、理想がだんだん見えるようになって、男の一生を懸けるに値すると思えるようになったんです。
もともと覚えはいい方です。長いせりふは、おはじきを10個使って稽古しました。まずは台本を10回読んで、1回ごとにおはじきを一つずつ取っていく。次は半分覚えながらもう10回。最後に台本を伏せて10回。その後で覚えた分を書いてみて、台本と照らし合わせるとどこが間違っているのかがわかる。
弟たちは喉が強いんですよ。声も楽に出ますし、苦労しないで謡が謡える。私は呼吸器が弱くて風邪をひくとすぐに声がつぶれてしまう。腹式呼吸を100回くらいやったり、逆立ちして声を出したり、すごく努力しました。本当に声が出るようになったのは60歳くらいで、今でも腹式呼吸を毎日20回はやらないと安定しないですね。この年になっても絶対に怠けちゃいけない。(和泉流の)野村萬さん93歳と万作さん92歳、お二人とも現役です。あの方たちに負けずにがんばりたいですね。
狂言はそれぞれの流儀やおうちのやり方があって、捉え方が違うんですよ。私は狂言はすごく平和主義だと思っています。人間、至らないものだと思っていれば傲慢(ごうまん)になったりしませんでしょ。狂言は人間の愚かしさを気付かせること、そうすることによって平和が保たれているんじゃないでしょうか。
それと、狂言は観客にとても礼節を尽くしている。舞台で皆が着ている紋付は、着飾っているのではなく礼服なんですよ。演技だけでなく、そうしたことの中にも、失礼なことを絶対にしないという考えが根底にあるわけです。
狂言はあえて説明をしません。せりふを削って削ってギリギリ引き算しているからわかりにくいかもしれません。でも「私はこれを訴えたい」と説明するのは、こちらの言い分をいうわけで、観客の知性や想像力に対して礼を失することになります。
舞台は祖父の素人弟子の銀行家の方が作ってくださったんです。文京区の本郷に建てて「土地建物すべて差しあげます」と言ってくださったのに、祖父は遠慮して「舞台だけいただきます」と言ったため、世界恐慌でその銀行がつぶれた時に土地を差し押さえられてしまいました。それで舞台を解体して、広い土地を探してここまで持ってきたんです。本郷にあった頃は「山本舞台」と言っていました。戦後、財団法人にした時に「杉並能楽堂」という名称になったんです。
特徴の一つは、江戸城三の丸の図面をそのまま再現したので、切戸口がすごく小さい。役者が頭をなるべく低くして出るためです。橋掛りも幕口に向かって下がっていて、上り坂で出てくるというのも残してあるのかなと思います。
もう一つは、音響効果のために昔の能舞台は皆、床下に大きな素焼きの瓶をいくつも置いていたのですが、うちではそのまま残しています。拍子を踏む場所がだいたい決まっていて、その下に置いてあるので、音がよく響くわけです。
あとは鏡板の老松。描いた方は祖父のお弟子さんで、舞台に対する畏敬の念があるので自己主張のない、とても良い絵だと思います。100年以上経っていますが、松の緑の葉は緑青(ろくしょう)をちゃんと使っていて、100年間まったく手を入れずにそのままきれいに残っています。
杉並区内では定期的に、杉並和泉学園と立教女学院小学校で狂言の公演をやっています。文化庁から予算をいただいて、荻窪小とか井荻小とかにも行きましたね。子供ってするどいんですよ。大人よりも反応がいいし、ちゃんと見ていてくれるんです。『狂言のことだま』に書いてあるような話をすると、今、自分たちが直面している問題に突き当たるんでしょうか、はっとした顔になって真剣に聞いてくれるんです。「自分も言葉を大事にしたい」という感想文をいただいたりもします。あとは地域活動として、高円寺や高井戸の地域区民センターで大人に見てもらう狂言会をやっています。
杉並といえば、名誉区民にしていただいて(笑)。長いこといるので空気みたいになっていて、いい所だと思います。まだ自然が残っているので、いろんな虫がいたり、鳥が飛んでいたり、花が咲いていたり。國學院大學1年生の時は、最寄りの(京王井の頭線)久我山駅から永福町まで電車に乗って、そこからうちまで歩いて帰ることがありました。大宮八幡宮の辺りを通るのは、特に秋には紅葉になっていて好きですね。
「師の跡を求めず、師の求めたるところを求めよ」が座右の銘です。師が何を理想としていたかを見つめ、考え、向かっていけということです。父は64歳で亡くなってしまいました。私が27歳の時です。けれど、その時までにすべての稽古を済ませてくれていました。30年先、50年先になってやるような曲もすべてです。そして「ここまで教えておけば、あとは芸が芸を教えるんだ」と言っていました。本当にそうだと思いますよ、特に60歳を過ぎてからは。父が口うるさくいっていたことが正しいことだったと一つ一つ思い当って、その上また新しい発見があるんですよね。そうするととてもうれしくなる。
「明日死ぬと思って生きよ、永遠に生きると思って学べ」というガンジーの言葉もとても好きです。86歳の今も日々、狂言が教えてくれることの発見があり、努力すれば、明日は今日よりも少しはましになっているのではと思ったりします。次の世代の者たちに、私が父から伝えてもらったものをすべて受け継がせなくてはと、それが一番の課題ですね。
取材を終えて
狂言は人間の愚かしさをありのままに見つめ、笑いにくるんでお目にかける、そして互いに認め合い、許し合う。日本人がずっと大切に守り続けてきた古典芸術、それを伝え続ける山本東次郎さん。2024(令和6)年2月にはパリ公演を控えているという。お話し中の柔和な笑顔と、舞台上でのスッとした舞姿、どちらも忘れられない取材となった。
山本東次郎 プロフィール
1937年生まれ。大蔵流狂言方。三世山本東次郎の長男
1942年11月「痿痺」のシテで初舞台
1952年9月「三番三」、1958年12月「釣狐」、1971年「花子」を披く
1972年5月 四世山本東次郎を襲名
1992年 平成4年度 芸術選奨文部大臣賞
1994年 平成6年度 観世寿夫記念法政大学能楽賞
1998年 紫綬褒章
2001年 エクソンモービル音楽賞(邦楽部門)
2007年 日本芸術院賞
重要無形文化財各個指定保持者(人間国宝)
2022年 旭日中綬章
日本芸術院会員
文化功労者
一般財団法人杉並能楽堂代表理事
杉並名誉区民
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>すぎなみ人 とっておき物語 vol.3>狂言にこめられた深い人間洞察と平和への願い(PDF)
※1 大蔵流狂言 山本東次郎家:徳川幕府の式楽の伝統を継承する大蔵流狂言の家柄。初世山本東次郎則正(1836-1902)に発する
※2 杉並能楽堂:杉並能楽堂舞台は山本東次郎家に伝存されてきた能舞台で、1910(明治43)年本郷弓町に創建、1929(昭和4)年に現在の和田に移築再建された。都内に現存する能舞台では靖国神社の芝能楽堂に次いで古い。杉並区指定文化財 有形文化財(建造物)
『新編 狂言のことだま 日本の心 再発見』山本東次郎(クレス出版)
「狂言装束と杉並能楽堂-大蔵流・山本東次郎家の伝統-」(杉並区立郷土博物)
協力:宮﨑穎さん(特定非営利活動法人 子ども未来)