杉並区高円寺南1-19
ボウリング機械のメーカーであるODIN社がボウリング全盛期のころに開業。大久保通りと環七の交差点にある10レーンほどのボウリング場だったが2~3年で閉鎖されたそうだ。現在はテナントと上層階はマンション。
全国ボウリング公認競技場協議会
ODIN社他ボウリング場設備機器
セマナさんはボウリング業界では知らない人はいないという有名人(写真中央)。日本で初めてのドリラー(ボールの穴あけ技術者)で長年中野のマルイボウルでプロショップを経営していしていたが、丸井中野本店の閉店により引退。奥様は女子プロボウラー第1期生の海野房枝さん(写真右)。取材当日は奥様と阿佐ヶ谷在住40年来の常連客の畑山さん(写真左)と杉並区役所ボウリング部2名をまじえボウリング場談議で大いに盛り上がりました。
GHQ時代セマナさんはフィリピン出身。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の軍人として沖縄、韓国、ハワイなどに赴任した。その後フィリピン大使館職員で来日した後、GHQ時代に培ったボウリングの技術を活かしドリラーの技術をアメリカで学び日本でプロショップを開いた。
アメリカ人にとって当時の最高の娯楽はボウリング。ある意味アメリカの国技だった。そのため占領地では各地の米軍キャンプにはきまってボウリング場が開設。セマナさんも韓国赴任中はボウリング場のピンボーイをやったそうだ。(写真上:裏側でピンをセットするピンボーイたち)
ボウリングブームの頃
セマナさんは目黒パークレーン(現存せず)でプロショップを経営する傍ら阿佐ヶ谷ボウルオープンに伴いプロショップを出店した。フィリピン人特有のフレンドリーさでプレー中の一般客のひとりひとりにテクニックを教えてまわる中、出会ったのが若き日の並木恵美子さんだった。(写真下:セマナさんと並木惠美子さん)
「彼女の集中力はすごいものでした。技術的にはまだまだでしたがプロテスト受験を勧めました。彼女にはピンを倒せばいいんだからと自由に投げさせました。まさかプロテストに合格するとは思ってなかったけど本番の強さはさすがですよ。(セマナ氏談)」
「最盛期の阿佐ヶ谷ボウルでは朝6時からの早朝ボウリング(1ゲーム100円)に開店待ちの列が青梅街道まで並んでいましたよ。(畑山氏談)」
「順番待ちが300番なんてこともありましたよ。昼休みに受付表を書いて終業後の5時半にやっとプレーできるなんて状況でしたよ。当時はマイボールを買っても順番待ちでいつまでたっても穴を開けてもらえなかったねえ。(区役所佐藤氏談)」
「阿佐ヶ谷ボウルの逸話といえば貸靴代とコーラの売り上げで従業員21人の給料まかなえたくらい流行ってたんだよ。(畑山氏談)」