子どもが多かった1960年~70年代、実は運動会のレースはたくさんあった。スプーンレース、だるま運び、障害物競走、ムカデ競争、二人三脚などなど。学年全員が同じレースに出ていたわけではなかったからだ。現在、区立小学校の子どもは一学年30名前後で2クラス平均。多くて3クラス、少なければ1クラス。だが、子どもの多かった時代には、40人学級で4~5クラスあったのだ。200名あまりの子どもたちが同じレースをやるのでは出番を待つ方も見る方もくたびれてしまう。多くのプログラムで飽きさせない工夫をこらした。まじめなレースもあれば、笑いを誘うものもあり、闘志やガッツに感動を呼ぶものも。まさに運動会のエンターティメント時代だった。現在は、環境や条件、社会の変化でなかなか実施されない競技や、見られなくなった競技は意外に多く、惜しまれる。
相手の陣地に立つ高い棒を倒しあうゲームだ。紅白はそれぞれ攻守に分かれる。攻撃隊は棒を守る隊に襲いかかり、人垣に飛びついて蹴り上げて駆け上り、棒にしがみついて倒そうとする。それを守備隊は待ち受けてガードする。こればかりは男子限定のゲームだ。
残念ながら、小学校の競技で棒倒しがある学校はほぼない。
危険性がいわれて昭和40年代に小学校、おそらくは中学校からも姿を消した。スポーツライターの玉木正之氏によれば、棒倒しも明治時代の壮士運動会という自由民権運動の1イベントから発生したものらしい。仮装行列(のようなもの)、騎馬戦に棒倒しが行われ、この壮士運動会には何百人も集まったそうだ。
現在も棒倒しは一部高校に残っているが、日本一の歴史と伝統と激しさで知られるのは海軍兵学校時代から続く防衛大の棒倒しだろう。上下のヒエラルキーの強い防大で、唯一先輩を殴っていい機会のせいか、その激しさは「死者が出ないのが不思議なほど」といわれる。
ハードル、平均台、ネットくぐり、麻袋に入ってぴょんぴょん、パン食いまたは飴食いなど、コース上に用意されたさまざまなゲームをクリアしてゴールするのが障害物競走。学校によって毎年工夫され、楽しみな競技のひとつだった。
大学運動会では体力筋力を問われる競技として明治時代からあるが、小学校の障害物競走は別物。宮沢賢治の「茨海小学校」という作品に狐の子どもが障害物競走をやろうとして草わなを作って叱られるシーンがあるから、コース上にバラエティに富む障害を設けたゲームとして大正時代には成立していたと思われる。
障碍者の気持ちを傷つけるという理由で行われなくなったというが、子どもが減って、できる競技の数が限られるためやれなくなったというのも理由のひとつである。
食いしん坊垂涎の的だったのがパン食い競争だ。糸でぶらさげられたパンを手を使わずに取ってゴールする。アンパンを使うのが正式なのだという。
もともと1893年(明治26年)札幌農学校第15回運動会のプログラム『食果競争』がはじまりといわれる。築地にあった海軍兵学校で明治7年に開催された運動会に隣町の銀座キムラヤがアンパンの失敗作を提供したというまことしやかな伝説もあったが(注1)、当時のプログラムにはパン食い競争らしい名前は見あたらない。
明治26年の札幌農学校の『食菓競争』に何が使われていたは謎だが、札幌に1911年(明治44年)、軍隊が住民の便のために4ヵ月で作った『アンパン道路』と呼ばれる道路がある。自治体が感謝の意をこめて一日5個のアンパンを兵士に支給したことからつけられた。このころアンパン製造業者(注2)がこのあたりに軒を連ねたというから、食果競技の歴史のどこかでアンパンを使うようになって、北海道から燎原の火のごとく全国の運動会に広まっていったのかも知れない。また、昭和初期らしい食果競争(新潟県立加茂農業高校)では、たしかにへそつきのアンパン相手に苦闘する姿がみえる。
現在、区内小学校では衛生上の配慮から、食べ物を扱う競技はない。あるとしたらビニール袋入りのまま、くわえてのゴールだろう。もっとも、今どきの小学生は、アンパンはキライだからやらない、とかいいそうだ。
(注1)明治7年は銀座4丁目に木村屋が開店しアンパンを売り出した年。
(注2)木村屋のアンパンの作り方は当時北海道には伝わっていなかった。このアンパンは焼いた饅頭のようなもの。
昭和の運動会というと聞こえてくるのがフォークダンス。『マイムマイム』もいいけれど、やっぱりペアになって踊る『オクラホマミキサー』だ。しかし今、運動会でフォークダンスを踊るという機会はほぼまったくない。前出の「表現」がフォークダンスを駆逐したのである。
フォークダンスの歴史をひもとくと、明治時代、文部省が高等師範女子学校で教えるように指導したのがはじめだそうだ。鹿鳴館で踊れるよう指導が入ったらしい。また一般向けにも大正~昭和初期にアメリカ人により東京YMCAで指導が行われた。昭和初期の実践女子の連合運動会のフィルムには、フォークダンスらしいものを踊る女子の姿を見ることができる。
小学校の体育に本格的に登場するのは、戦後のことである。昭和24年戦後初の「指導要領」にフォークダンスが登場。これより前の昭和21年長崎でW・P・ニブロがはじめてアメリカのフォークダンス『バージニア・リール』を披露し、のちに東京でGHQの民間情報教育局に異動したことで、日本の体育にフォークダンスが採り入れられたのである。昭和28年には「リズムや身振りの遊びとリズム運動」の項目に「民主的態度の育成」があり、フォークダンスは「外国のリズム遊びを楽しみながら,新しい男女関係の基礎をつくる」とある。それが昭和52年の改訂でフォークダンスのあった項目に替わって『表現』という言葉が登場。フォークダンスは必須科目から表現のひとつになってしまうのだ。民主的態度を育成し『表現』していたフォークダンスは、現代の子どもが様々な事象を表現するには狭い、ということになったわけだ。もちろん「林間学校など校外学習のときに指導しています」という学校もあり、運動会にはなくてもキャンプファイヤーでフォークダンス、という伝統はなんとか守られている