携帯電話、インターネット、テレビゲーム…、深夜営業の店もまだ少なかった昭和40年代。当時の日常生活には不便ゆえの苦労や工夫など現代の生活に役立つヒント、学ぶべきことも数多くあったことだろう。
昭和40年代の生活を記憶するため、区民または杉並の居住歴のある方々から原稿と写真を一般公募し、原則として原文のまま紹介していく(部分的に編集したものもあります)。
PDF:昭和40年代年表(528.6 KB )
昭和47年、日本は色んな出来事がありました。まだ小学生2年だった私が、それらをよく覚えているのは当時の学校の先生のおかげです。
K先生は、戦時中の辛い食生活などもよくお話しされていました。塩鮭1切れで二日も三日もご飯を食べたとか。戦争体験のある担任から直接お話しを聞けることなんて今ではあり得ないのだから貴重な時間だったのかもしれません。荻窪からバスに乗って下井草(だったか)の先生のお宅におじゃました時、サンドイッチのバイキングをしてくれたのですが、それがいつもの先生のイメージと違うことも印象的でした。
そんなK先生が札幌オリンピックや、浅間山荘事件が気になるらしく給食時間にテレビをつけて私達にも見せてくれました。区立小学校の教室には黒い鉄でできた蟹にも似た高い台の上に木製の観音開きの扉がついたテレビが鎮座していました。
記憶に残っているのは浅間山荘のボウリングシーン、そして日の丸飛行体のジャンプ競技。当時は「がんばれ-!」などと騒ぎながら見ていたのですが、それが本当に大きな出来事だと理解したのはかなり大人になってから。何かハラハラドキドキをクラス中で体験共有できる、というのは楽しい時間でした。また社会に対する関心も高まり、以来ニュース番組をよく見るようになったのも、こんなことが原因かもしれない、って感じるようになりました。
投稿:小泉ステファニー(昭和46年当時7才)
-掲載:2011年10月20日-
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PDF:温故知新 昭和40年代に学ぶ(子供編)(1.8 MB )
生まれも育ちもずっと阿佐谷北4丁目です。昭和50年代、中杉通りの工事で家は少し移動しましたが。杉並第九小学校を卒業して、桐朋中学・高校に通っていました。昭和42年から48年までの6年間です。
中学の頃、私の毎日はグループサウンズ!(注:主にビートルズに影響を受けた日本のバンドがアイドル的に続々デビューした。)もう、ぞっこんでした。タイガース、スパイダース、ジャガーズ、テンプターズ…そして最高に素敵だったのはゴールデン・カップスのドラマーでボーカル、マモル・マヌー様でした。今でも彼の歌声を聴くとゾクゾクします。朝のテレビ、「ヤング720」という番組を欠かさず観ていました。7時22~3分頃に新曲を出したばかりのグループが演奏するんです。ゴールデン・カップスが出たらもう、テレビに釘付け。その後、あわてて家を出て阿佐ヶ谷駅まで全速力で走る走る。革鞄が重くて。それでも中高を通して一度も遅刻せず、皆勤賞だったのは自慢です。高校に入ってからは、そもそも音楽の道に進むコースでしたので、そちらの勉強に集中しました。いずれにしても、若い時に自分からやる気が起こった事に対して徹底的にのめりこむことが大切だと思いますね。その結果できなかったことがあっても後悔しません。
その後私はピアノやエレクトーンを弾いたり教えたりする仕事をするのですが、あの頃の熱中癖が上手く活かせたなと思っています。
投稿:藤井典子(昭和42年~48年・当時12歳~18歳)
-掲載日・2011年10月13日-
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PDF:温故知新 昭和40年代に学ぶ(学生編)(704.9 KB )
「東京はええぞ。」この時すでに売れっ子の友人、ブルースハープの第一人者妹尾隆一郎に半ばそそのかされ、サックス奏者の私は京都から上京してきました。昭和48年の夏の事です。ボーカリストの仲間と横浜に部屋を借りましたが、演奏しては朝まで飲み明かす毎日だったので、ほとんど家には帰らず、6年後高円寺に引っ越すまではライブハウス近辺の友人宅を転々とする暮らしをしていました。当時は東京でもライブハウスは少なく、地方に演奏旅行に行く事がしばしばです。地方ではライブハウスのマスターやお客さんがご馳走してくれるので、お金が無くても食べ物には困りませんでしたが、旅行を終えて戻ると食べ物を買うことも大変だったのを覚えています。高円寺の「丸十ヒロセ」でパンの耳を安く大量に買ってお腹を満たしたり、「ニューバーグ」や中華の「大陸」にもよく行きました。高円寺は若者が住みやすい街でした。
今でもこの辺りの音楽事情はさほど大きく変化していないと感じますが、音楽を志す者の環境は大きく変わりました。私達は雑誌やジャケット写真などの、ほんのわずかに得られる情報の中で、ひたすら『音』から音楽を学びました。何度も繰り返し針を置く好きなレコードは磨り減って聞く事ができなくなります。私がこだわってきた1音への集中力・その説得力を育んだものは、1枚のレコードが貴重品だったあの日々の中にあるのかもしれません。
投稿:白庄司孝(昭和48年・当時24歳)
-掲載日・2011年9月30日-
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PDF:温故知新 昭和40年代に学ぶ(社会人編)(537.9 KB )
阿佐谷南1丁目に住んでいました。昭和40年に息子が9歳、娘が6歳です。我が家も含め、近所はほとんどサラリーマンの世帯でした。当時はまだ夫婦共働きが少なく、主婦は家事に専念していたものです。私は主婦業の傍ら、地域の子ども達のことをよく見て声をかけたりしていましたが、杉並第六小学校のPTA会長に選ばれてから、私の本格的な地域活動人生が始まりました。その後、民生委員、諸々の協議会、杉並区町会連合会、馬橋青少年育成委員会・・・と途切れる事無く、なんと活動は80歳まで続いたのです。最近は特に子育てへの地域協力者の必要性が叫ばれていますが、今思えばその先駆けでした。
数多い活動の中で印象に残っているのは、昭和40年代に始まった杉並第六小学校校庭での菜園作りに関わり、そばを育てたことです。子ども達にそば粉ができるまでを見せたくて、馬橋村時代の石臼を借りてきて挽きました。量は少なかったので、こねたものをフルーツポンチに入れて食べましたが、子ども達から感謝の短冊を贈られ感激しました。子ども達の喜ぶ顔を見てますます張り切り忙しくなりました。それでも、自分の子ども達にはちゃんと顔を見て「ただいま」「おかえりなさい」の声かけをすることや、食事作りは精一杯手をかけ、心を込めることを忘れませんでした。
子どもは親の背中を見て育つというのが私の方針です。子ども達も「お母さんは人のために一生懸命働いているから」と、どんどん協力的になって行きました。
地域活動でも家族でも、大切なのはきずなと思いやりですね。
投稿:石川慶子(昭和40年代・当時31歳~40歳)
-掲載日・2011年10月13日-
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PDF:温故知新 昭和40年代に学ぶ(家族編)(720.6 KB )