夕刊の碁将棋欄の「次の一手」をためそうとしていた主人公は、思いがけない訪問をうける。客人は、主人公夫婦の新婚時代、下宿の隣りの貸間に住んでいた旧友。帰宅した妻も喜び、ともに歓待する。旧友の出現は二人の新婚時代の想い出につながり、初老をむかえた夫婦の生活にひとときのはなやぎを甦らせるのだが…。面白くて一方わびしい、庶民的な作風で人気をはくした木山捷平(しょうへい)さんの、阿佐谷を舞台とした短編小説。数々の作品がラジオドラマ化もされ、お茶の間の話題となった木山さん。とりわけ長年連れ添った夫婦の情感を描いたこの作品は、昭和34年の発表当時、杉並の人々の評判となった。杉並の名作が文庫本となり、主人公の妻が押し入れから取り出した懐かしい風鈴のように、ふたたび現代にその音色を響かせている。
おすすめポイント
木山捷平さんは文学を志し岡山から上京。結婚後、高円寺に住み、創作活動を続けながら、同人誌や阿佐ヶ谷会を通じ、杉並や近隣の作家たちと交流を深めた。戦時中、農地開発公社の嘱託として自ら満州に渡ったが、現地にて召集される。復員後、体調が悪化、高円寺の家も空襲で焼け落ち、戦後は長く故郷にとどまった。その後、単身で上京。西荻窪、天沼と貸間暮らしで創作活動を再開、練馬に居を構え家族を呼び寄せた。満州時代の体験をもとにした長編小説『大陸の細道』が芸術選奨励文部大臣賞を受賞、作家としてようやく花開いたのは五十歳を越えてからだった。結婚以来ささえあった長い苦節の日々、そんな木山さん夫婦の姿もそこはかとなく漂う作品だ。