太平洋戦争中、空襲や災害を避けるために、学童集団疎開というものがありました。これは国を挙げて実施したもので、杉並でも小学3~6年生を対象にして、昭和19年8月に長野県へ第一陣が出発しました。その学童集団疎開の様子を紹介します。
空爆を逃れて疎開した区内の児童
今日では耳なれない言葉ですが疎開(そかい)は空襲や災害などの被害を避けるために、人やものを分散したり他所へ移すことで、いろいろありました。物資の疎開、建物の疎開、学童集団疎開などです。
ここでは太平洋戦争中の学童集団疎開について述べたいと思います。縁故疎開で地方に行った小学生は沢山いて、それぞれにつらい想い出はあると思いますが、学童集団疎開ほど参加した児童に、人生に多大な体験を与えたものはないと思います。時々疎開組でクラス会を開きますが、絶対に参加したくない人がいます。聞くのもいや、想い出すのも身の毛がよだつと言うのです。それ程強烈な印象となって残っているのです。
左上の写真を見て下さい。これは昭和20年3月疎開足掛け8ヶ月を経た6年生が、中学受験の為に帰京する直前に撮った写真です。前列に小学3年生、後列は6年生です。大宮小の児童たちです。
昭和19(1944)年8月、杉並区の希望する3年生以上が参加しました。3年生は9歳です。これを読む皆さん、父母ならご自分の9歳の息子さん、娘さんを見て下さい。祖父母ならお孫さんの同年の子をご覧になって下さい。こんな可憐な子供達が遠く離れて「学童を戦闘配置につかせる」(都長官の言葉)のもと、「教育召集であって、疎開地は戦場と同じ」の掛声で、全国各地に疎開させられたのでした。いま同年の子供達を見ると、よくこんな幼い子達をと絶句するばかりです。
写真には45名の学童が写っていますが、昭和19年8月に寄宿(学寮といいました)のお寺成就寺に着いたときは、53名いました。ですから8名の学童が、集団生活に堪えられず、無断で帰宅しようとしたり、親元に引き取られたのでした。これはどの宿舎でも同じだと思います。
ではここで少し資料に当たって見たいと思います。太平洋戦争が開戦してから、昭和17(1942)年4月の米国のドゥリットルのB25の東京初空襲以来、東京の戦場化・無差別爆撃をも想定し、次代を担う少年少女の空襲による絶滅を危惧した政府が、その温存をはかる為に学童集団疎開計画をしたものでした。政府は「戦争政策遂行のため、又都市防衛の足手まといを去らせる」と言っていますが、同様な計画は、フランス・ドイツにもありました。
戦争が苛烈化しはじめた昭和19(1944)年3月、政府は「一般疎開促進要綱」を閣議決定。一般疎開を「強度に促進する」との方針のもと、縁故疎開の実施に踏み切りました。更に同月「学童疎開奨励に関する件」を、東京都教育局長より各区長宛通牒、まず学童の縁故疎開を促進しました。6月には「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、東京の縁故疎開困難な3~6年生の学童疎開をきめ、7月に文部省・内務省・東京都が、「帝都学童疎開実施要領」を共同発表しました。
その「基本方針」は、原則は強制によらずあくまで勧奨、児童の個別調査は各校で行い、勧奨に応じない者には理由書を提出させ再勧奨する。当面虚弱児や集団生活に耐えられない児童を除く、都の42%に当たる20万人を対象に、1ヶ月半位を目途に8月中に全区からの疎開を完了するというものでした。
多くの各家庭は、「お国のために」「非国民になりたくない」「せめてこの子達だけでも」と応募の子女を出しましたが、女子のクラスの母は娘を手ばなすことは出来ず、軍人の子供は逃げるのはいやだといって東京に残ったり、広い農地をもつ農家の子供のなかには、逃げる場所がある、安全だと言って参加しない者もいました。
杉並区ははじめ長野県を疎開の対象としたが、参加者が多くなり、宮城県が追加になりました。昭和19年8月、長野県への学童疎開第一陣が出発しました。同年9月杉並第六小学校(当時は国民学校といっていました)の宮城県行きをもって、第一次の集団疎開は終了しました。翌20年には、3月に卒業する6年生と入れ替わりに2~5年生(3月現在)が疎開地に向かいました。第二次実施です。
以下区内国民学校の名と行先と全体の数を上げて見ます。(数字は昭和20年度の参加者数とします。)
○ 長野県 杉一、杉二、杉五、杉七、杉九、杉十、桃二、西田、若杉、堀之内、方南、和田、新泉、大宮、私立立教の各小学校 4478名
○宮城県 高井戸、高二、高三、高四、杉三、杉四、杉六、杉八、桃一、桃三、桃四、桃五の各小学校の3852名でした。両県合計は8330名です。
この数字は不明数が加算されていませんので、実数はもう少し増えると思います。なお杉並区の当初計画は3800名でした。
寄宿はお寺、公会堂。旅館、ホテル、教会などでした。
杉並区の疎開第一陣は、昭和19(1944)年8月杉二、杉九、和田、堀之内の児童達が長野県の各宿舎(学寮といいました)に向かいました。上右の行李は柳行李といわれるもので、日用の道具や、衣類が入っていました。これは前もって布団などと一緒に送られました。学童たちはリュックを肩にかけたり、カバンを下げて出発しました。
宿舎での生活は、はじめ物珍しさもあり、お寺の場合本堂裏の骨壷のある処を恐々(こわごわ)探検したり、裏山の墓地で肝試しなどをやり、緊張感もありましたが、楽しい部分もありました。しかし次第に異郷での生活に適応出来ない児童が出て来ました。無断で帰宅しようとして、駅から連れ戻されたり、仕方なく親元に引きとられる子供たちも出ましたが、大部分の子供達は頑張ることを決心しました。
しかし暮れなずむ夕方、女子のいる庫裏で一人の児童が泣き出すと、全員が声を揃えて泣き出しました。その異様な風景を男子達が取囲んで黙って眺めていました。
児童の場所はお寺では、本堂を中心に左右にある畳敷きのところが、各班に分かれた児童たちの根拠になりました。冬はここに掘炬燵が掘られました。
宿舎が学校に当てられたりしましたが、教室を空けてくれた地元の学校に通う場合もあり、東京から引率の先生が授業に当たりました。広い校庭、隅にはプールもあり、夏のこととて水泳はよかった。又地元児童と一緒に山登りをしたり、薪拾いに出掛けたこともありました。トラブルになり、あわや集団乱闘かというところまで行ったこともありました。地元の人は一般に好意的で、食糧確保などでいろいろお世話になりました。地元の同級生ともいまだに交流を続けていられる方もいます。
悲喜劇は甘味が殆どないことでした。甘いものが欲しい年頃です、お菓子はありませんでした。誰かが胃腸薬の「ハリバ」が甘いと言い出しました。一斉に子供達は小遣銭を握り薬局に走りました。町全体から「ハリバ」は消えてしまいました。今でもそのほのかな甘味を思い出します。しかしこれは胃をよくする薬です。空きっ腹にこれを食べると、益々胃腸の働がよくなって余計に腹が空いてしまうという悲劇になりました。
学寮での毎日の日課の一例は次のようでした。
午前6時30分起床、7時30分食事 8時20分朝礼 8時40分学習 11時乾布まさつ 12時昼食
午後1時学習 3時30分一斉清掃 5時30分夕食 6時30分自習 8時点呼 9時全員就寝
どの宿舎(学寮)もほぼ同じだと思います。
朝は早かったです。筆者のいたお寺では、大太鼓がたたかれて起床、杉九では魚板(ほう)、立教女子では木板がたたかれました。境内を流れる小川で顔を洗い歯磨き、そして乾布磨擦上の例では11時ごろやっていますが、この学寮では洗面の後でした。10月末までやっていましたので寒かったです。
何といっても楽しみは食事でした。上右の写真を見て下さい。皆ニコニコしています。しかし月を経るにつれて、食糧事情は悪くなって行きました。先生や地元の方々の協力もあって、何とか欠食ということはありませんでしたが、量が少なくいつも空腹でした。学校へは弁当箱に食糧をつめてもらい持って行きました。
困ったことは、虱(しらみ)がやたらと増えたことでした。頭髪のなか(主に女子、男子は坊主頭でつきませんでした。)シャツ・パンツの縫い目に卵を生みつけ、成虫になると食いついてその痒さはたまりませんでした。本堂廊下などで、一斉に衣類を脱いで虱取りに専念しました。退治は煮るしかありませんでした。寮母さんたちに頼み、大きな釜で衣類を煮てもらいました。
更に困ったのは寒さです。冬は室内に掘炬燵があり、しのぎ易かったのですが、当時は現在より非常に寒く外気温は-17度にも達しました。銭湯の帰り手拭い・タオルが凍り、振り回すと棒のようになったのを、矢次郎兵衛(やじろべー)よろしく重心をとりながら帰ったものです。
それより更にひどかったのは、お便所の大小が凍ったことです。男子便所は外に設けられました。用を足した後こぼれた水滴が凍るのです。夜便所に起き、寝ぼけ眼で足が滑り、便器周辺に転げこんだ者が多数出ました。又起きる事が出来ず、寝小便をする子が3年生に多かったようでした。
大が凍ったのには参りました。昔は汲み取り式で、大小便は甕に貯めていたのです。それが凍り用を足す毎に積み重なり、遂には昔の和式の便器から、三角形になって突き出してしまったのです。対策は当番生徒が二人組になり、汚れてもよい服装をし、帽子をかぶり、口には手拭いでマスクをして、汲取口の蓋をあけ、鉄の棒でエイヤッとばかりに突込んでつき崩すのです。夢中で棒を振っているうちに、手拭いがはずれ口の中に飛びこんだ物があり、ペッとばかりに吐き出したものです。しかしそんな努力も何のその、又たちまち盛り上がり、この作業は冬中春が来るまで続きました。
疎開生活も暗い悲しい生活ばかりではありません。明るい楽しい部分を紹介いたします。
先ず楽しいことの一番は親から送られてくる手紙でした。筆者のお寺(学寮)では、郵便係を決めて(2名)朝早く学校に行く前に、町中の郵便局に郵便物を取りに行きました。一同首を長くして係の帰りを待ちます。来信のあった生徒は、喜びを隠しきれない笑顔、手紙を抱きしめています。来信のなかった生徒大勢は、恨めしそうな顔付きです。文面の中には日本は神国だ神風が吹いて勝から頑張れなどという神がかり的な父親からの葉書もありました。
面会もありました。各生徒一回はあったのではないでしょうか。政府の方でも切符の手配など、配慮があったようです。町中の旅館に泊まった親の元に、出向いて一緒に泊まった記憶があります。
遠足も楽しかった。薪取りを兼ねての遠足や作業に出ることは、狭い宿舎から離れて広い大空のもとでの作業だけに、解放感がありました。賄のオジサン・オバサンに引率されての食糧調達行は、少人数で行っただけにうれしさも一汐でした。落穂拾いもありましたが、筆者のところでは、全員で町を離れ、郊外に蝗(いなご)取りに出掛けました。青空のもと稲穂に群れる蝗取りに夢中になりました。蝗は炒(いた)めたりして食べますが美味しく蛋白源になります。何回も出かけました。
スケートも楽しかったです。稲の刈り終わった田に地元の方が水を引き入れ、折からの寒さでたちまち全面結氷、よいスケートリンクになりました。そこで下駄スケートです。しっかりと紐でしばり、スケーティングを楽しみました。大分上手になった児童も出ました。革のスケート靴が非常に欲しかったです。
又いろいろ慰問に来てくださる方もいました。村の演芸団の方々が来て下さり、紙芝居・ハーモニカ演奏・手品・バイオリンなど弾いてくれました。ハーモニカはこれ以来流行し、名人級の演奏をする児童も出ました。この寒さに年中裸で過ごすといった人にも会って、一同驚嘆しました。町の映画に行くのも楽しみでした。
浅間山が噴火爆発すると日本勝利の印(しる)し戦果が上がったと、庭で飛び跳ねたりしましたが、それも糠喜び。(あの頃は浅間がよく爆発し噴煙が上がりました。)多少の楽しみがありましたが、戦争が厳しくなるにつれ、全体的には大変な労苦を強いられた疎開生活であったと言えると思います。
乏しい食料事情から来る栄養不良で、免疫不全に陥り腫れ物が多く、一寸した掻き傷がすぐ化膿してしまいます。高井戸第四の昭和19年から20年にかけての統計によりますと、白癬・疥癬の他風邪、寒さ故のしもやけなど凍傷が多く、罹患しています。しもやけは一旦くずれると中々治りませんでした。
感染症も発症しました。昭和20年6月には和田小で赤痢発生、同6月こんどは杉九で腸チフスが発生しています。この場合生徒から死者は出ませんでしたが、杉九では先生が1名殉職しています。桃一・桃二では児童が腹膜炎で死亡しています。児童は全部で13名が亡くなっています。幸いというか自殺者は出なかったようです。
しかし昭和20(1945)年3月に帰った6年生はまだよかったのです。昭和20年4月以降も現地に留まった生徒、4月から新たに参加した3・4・5年生には更に厳しい月日が待っていました。食糧事情は日に日に逼迫し、全員が栄養失調状態になりました。
昭和20年5月1日疎開児童への主要食糧配給量が減少されました。疎開実施当初は10歳未満2合7勺が2合に、11歳以上3合4勺が2合8勺になりました。更に7月11日には、10歳未満1合8勺に、11歳以上は2合5勺になりました。(註 1合(ごう)は0.18リットル、1勺(しゃく)は0.018リットル)
8月15日の敗戦の日は、戦争が終わり家に帰れると喜んだ生徒たちが、庭に飛び出て手をつなぎ輪になって、「戦争終わった、戦争終わった」と叫びながら何時間もグルグル回りながら踊ったと言います。だがこれらの生徒達はすぐ帰宅出来ませんでした。東京も食糧事情は悪く、一面の焼野原杉並も5月24日夜から25日の空襲で大分家屋が焼失し、住む家がなかったのです。すぐには親は引きとれませんでした。最後の学童が引き上げたのは、同年11月10日頃でした。
当時の児童の想い出の文を抄録して見ます。
(大宮国民学校児童 沓名康彦 当時4年生)
(前略)
「私は昭和二十年九月に、父と一緒に皆より二ヶ月早く東京に帰りました。それは八月の終戦を与良公会堂で迎えた時点ですでに栄養失調にかかり、その程度がかなり進んでいて、父の持ってきた白米のおにぎりが食べても胃が受け付けない状態になっており、小諸市の病院で一時入院をし、多少体力を回復させてから東京へ帰ることになったからです。これがあと二週間後れていたら、現在の自分はなかったことと時々思い出します。私にとって小諸の思い出は「苦い」「苦しい」幼年期の体験でありました。しかし現在あの集団疎開の貴重な体験が、現在の自分を作ったと信じています。」
学童集団疎開参加者は、その人格形成に多大の影響を与えたと思います。忍耐心をはじめ人間観察に多大の教訓を得ました。実を言えばその生活の中では、ケンカ・イジメ・盗み・ゴマ化しなど悪い面もありましたが、友情も育ちました。大人の社会の縮図もありましたが、子供らしい一本気や団結心も見られたのです。
しかし私達はこうした苦労を、二度と幼い児童達に味あわせたくありません。戦争はもうコリゴリです。日本は二度と戦争をしかけることはしないと誓いました。あとは国際社会が物事の解決に戦争に訴えないことです。現状は錯綜し解決は難しいと思いますが、一歩でも二歩でも戦争のない地球をつくり上げられることを願っています。
長野県小諸市の成就寺に疎開した大宮国民学校の卒業生たちは、平成16年8月、疎開開始60周年に当たることを記念し、住職の賛同を得て、境内の一隅に地元の方々への感謝と平和を念じて記念碑を建立しました。右上の写真です。(碑文は下記の通り)
「学童集団疎開の碑」碑文
太平洋戦争の激化に伴い一九四四年八月から翌年十一月まで東京都杉並区立大宮国民学校三年生 六年生五十三名はここ小諸市成願寺に集団疎開し 親元を離れ寝食を共にした
私達を暖かく受け入れてくださった地元の皆様に感謝すると共に
二度とこのような悲惨な歴史を繰り返さないことを願い更に恒久の世界平和を希求するものである
二〇〇四年八月吉日
東京都杉並区大宮国民学校集団疎開学童一同