instagram

智慧と技術の結集!天保の水普請 新堀用水

天保の水普請・新堀用水開削の記録

いまから約160年前、水不足であった旧桃園川流域の中野村・高円寺村・馬橋村農民を代表する、名主らは天保の飢饉を契機に、灌漑用水の確保のため、尾根筋向側の善福寺川の水をトンネルで潜る用水路開削を決意した。
名主らは幕府代官の許可を得て智慧と技術を結集して天保の「水普請」「他領入会大普請」といわれた新堀用水開削に成功し、以来、新堀用水は大正時代まで三ヶ村の水田を潤した。

中野村・高円寺村・馬橋村三ヶ村用水記念碑
~碑に記憶される先人たちの汗

杉並高校の隣、須賀神社と並んで「成宗五色弁財天」がある。その一角にひっそりと建つ記念碑がある。この記念碑は、天保11年(1840年)、同12年(1841年)に行われた善福寺川から桃園川に分水するための水普請(用水路開削)を記念し、明治13年(1880)建之されたものである。弁天池付近の埋立工事等により一時行方不明であったが、発見され成宗五色弁財天社境内に再び建てられている。平成17年度杉並区登録有形文化財(歴史資料)に指定された。

碑面には、中野村・高円寺村・馬橋村の水不足解消のため用水路を開削したことが記され、発起主の中野村・高円寺村(二人)・馬橋村の旧名主、堀江卯右衛門、大谷徳左衛門、村田仁三郎、大谷助次郎と水盛大工川嶋銀蔵、県令(代官)中村の名が刻まれている。

この用水路は、かねてから水不足であった桃園川流域へ、水量がある善福寺川の流水を分水したもので、天保の大飢饉を契機に天保11年(1840年)に、中野村、高円寺村、馬橋村(以下三ヶ村と略称)の三ヶ村名主らが中心となって灌漑用水確保のために計画し、実現したものである。
善福寺川流域の田端村・成宗村(以下二ヶ村と略称)の了承、幕府領(天領)代官所や鳥見役所の許可、指導と補助金を得て、武蔵野台地を潜るトンネルを含む難工事を完成したが、直後、川獺の巣による漏水、大雨により土手が崩壊してしまったため、一部路線を変更し、再度工事を行い天保12年(1841年)完成した。
※【コラム5】「新堀用水路開削工事の概要」を参照

この用水によって、三ヶ村の22町7反の水田が潤うことになり、その恩恵は大正時代まで続いた。

この記念碑は、江戸近郊農村を維持保全するための先人の智恵と努力を顕彰し、その功績を後世に伝えようとして建てられたもので、地下深く埋もれている杉並の「天保の水普請・新堀用水」を思い起こす記念碑として、いつまでも保存したいものである。

本用水の名称は、当時の文書史料には「新規掘割」などと記されているが、その後、『杉並風土記』『杉並の歴史』等で「天保用水」「天保・新堀用水」「新堀用水」が広く使われている。
本稿でも、通称名としての「新堀(しんぼり)用水」を使用した。
杉並区教育委員会登録有形文化財としての公式名は「中野村・高円寺村・馬橋村三ヶ村用水記念碑」である。

――――――――――――――――――――――――
碑文 (記念碑本文は縦書き)

明治十三年三月建之
              三村里正 
武州多摩郡中野村高円寺村 発  堀江卯右衛門
馬橋村之地平原乏水屡罹凶 起  大谷徳左衛門
旱三村之民相謀上請開新渠    村田 仁三郎
引池水以灌漑時県令中村氏 主  大谷助次郎
給費天保十二辛丑正月工竣  水盛大工 川崎銀藏
――――――――――――――――――――――――

「中野村・高円寺村・馬橋村三ヶ村用水記念碑」。所在地:杉並区成田東5-29 成宗五色弁財天社内

「中野村・高円寺村・馬橋村三ヶ村用水記念碑」。所在地:杉並区成田東5-29 成宗五色弁財天社内

天保11年(1840年)工事水路計画
~危機的水不足にみまわれ、抜本的解決策へ!

江戸時代後期、杉並区の東北部から中野区へわたる馬橋村、高円寺村、中野村の水田灌漑用水は、主として天沼弁天池の湧水と千川上水からの分水を合わせた桃園川の流水を利用していた。しかし、桃園川は水量が少なく雨水のみを頼りにする平坦地の「天水田」があり、かねてから灌漑用水の不足に悩んでいた。とくに、天保4年(1833年)からは日照りが続く一方、天保7年(1836年)は冷雨が降るなど、凶作の年が続いた。

このような危機的状況打開のため、馬橋村、高円寺村、中野村の村民を代表する三ヶ村名主と田持らが協議し、抜本的解決策として、武蔵野台地の尾根筋の向う側を流れる善福寺川の水をトンネルを掘り桃園川流域へ流し込むという画期的計画が立てられた。
善福寺池の湧水を水源とする善福寺川は水量が多く、大雨のときは田端村・成宗村の田は辺り一面大池と化すほどであった。こうした背景もあり三ヶ村側の灌漑用水の分水申し入れに対し、二ヶ村側(田端村、成宗村)側は理解を示し支障はないと回答した。

しかし、取水口については、高低差を得るため田端村水田の上流広場堰(図A ※【コラム5】画像参照。以下同じ。)大谷戸橋上流(荻窪団地西北側駐車場付近)を希望する三ヶ村側に対し、二ヶ村側は「自村の灌漑用水が確保できなくなる」と反対したため、下流の権現堰(熊野神社裏手、矢倉橋付近)とした。そのため、地面掘削による用水路では必要な高低差が得られないので、掛樋を設置し成宗弁天池(成田東5-29)(図C)に水を落とすことにした。

弁天池からは用水路を掘り、武蔵野台地尾根筋を通る青梅街道の下、区役所東側、パールセンター通り、すずらん通りの地下をトンネル(図D)で潜って、元長生湯付近でトンネルを出て桃園川流域流出口(図E)に至るコースとした。

本工事にあたり、三ヶ村名主は、幕府直轄(天領)の代官中村八太夫に工事の許可と工事費補助金を要請した。代官中村八大夫の実地検査があり、幕府領の農村保全対策として水普請(用水開削工事)を認め、自普請としながらも270両の補助金が交付されることになった。

天保11年(1840年)2月には『水が田端村、成宗村地区を通るので、三ヶ村の名主は田端、成宗村の名主と組頭17人を荻久保八丁の角屋に招いて、各村名主へ各金20両、各組頭へ各金2分宛ての挨拶金を贈り了解を得』た。(杉並風土記 森泰樹著 より引用)

開削工事請負人には馬橋村名主の大谷助次郎がなり、設計、施工、監督には水盛大工の川嶋銀蔵が決まり、同年2月、成宗弁財天社境内弁天池付近に工事関係者が集まり地鎮祭を行い、着工となった。工事は順調に進み、5月中旬には、弁天池(図C)から青梅街道尾根筋をトンネル(図D)で潜り、桃園川流域流出口(図E)までの用水路が完成した。

トンネル出口 元長生湯付近

トンネル出口 元長生湯付近

広場堰取水口の変更と土手崩壊による用水路変更工事
~カワウソ君の穴掘りも影響!

天保11年(1840年)5月、中村代官の現地検分があり、その結果「善福寺川取水口を権現堰とし掛樋により弁天池(図C)に流し込むのは、技術的、費用、維持補修などに難点がある。上流の広場堰(図A)取水の方が適当であり、また、二ヶ村の田の水損も少ない」と、取水口を当初、二ヶ村側が断った上流広場堰に戻すよう指示された。

二ヶ村側も、代官の指示と、三ヶ村側が二ヶ村田持に対し補償の手当金を払うことで了承し、用水路が変更された。

取水口の広場堰(図A)への変更に伴い、用水路は矢倉台地を迂回する部分(図B)は既設の用水路を利用し、台地の東をトンネルで抜け弁天池に流入するものとなった。トンネルを含む開削工事は天保11年(1840年)9月頃完成した。

しかるに、直後、既設用水路を利用した田端村(図B)区間の土手が、川獺(カワウソ)の巣穴による漏水と、11月の大雨により土手が崩壊した(下記(註)参照)。この土手の補修には多額の工事費と、再度の崩壊も予想されたので、あらたに、広場堰から矢倉台地をトンネル(図F)で潜り、弁天池へ直接流し込む用水路(560m.内トンネル230m.)を掘削した。

これにより、天保12年(1841年)12月、総延長2.27km. 内トンネル部分2ヶ所0.65km.高低差2.5m.の新堀用水路開削(水普請)が完成した。

写真は成田西の宅地造成中に発見された用水路地下トンネル部分で、地上からトンネルまで4.5m.高さ1.3m.巾1.6m.あり、厚さ9m.の関東ローム層を素彫りしたものであった。

『天保11年用水路新規自普請諸入用取調書上帳では、惣入用58貫8831文8分5厘 人足3618人 天保12年用水路引入再普出来形帳では惣入用29貫3150文7分 人足2145人であった。』
(杉並区立郷土博物館研究紀要第15号 中野村・高円寺村・馬橋村三か村用水開削の経緯と成宗弁天 竹村誠 引用)

(註)川獺(カワウソ):ネコ目 イタチ科に属する哺乳動物 日本中に広く生息していたが、乱獲や開発による生息環境の変化で激減。1979年以来目撃例がなく、絶滅したと考えられる。鼬(イタチ)は昭和初期まで杉並で筆者も目撃している。川獺は目撃したことはないが、よく古老の話に出てきたカッパは川獺のことかもしれない。
用水開削当時は川獺による堤防の被害は多かったと思われ、三ヶ村の名主、村役人から二ヶ村村役人へ工事前提出した誓約書「入置申一札之事」のなかでも、「獺の穴による漏水を防ぐ」ことが書かれている。

成宗五色弁財天社 弁天池 成田東5-29
当社は成宗村がつくられた頃、水神様のご加護を祈って建立されたのが始りと伝えられている。近世の当社は水信仰の中心となり、日照りが続くと雨乞いにお参りし池の水を持ち帰ったという。
弁天池は当時、百坪もあり湧水が湧き出ていたが新堀用水の中継池とするため、堀広げ、その土を盛上げて富士塚がつくられた。その後、池も富士塚も平地化され、現在は大型マンションが建っている。
境内には「中野村・高円寺村・馬橋村三ヶ村用水記念碑」が建之され、また、当時の石橋が保存されている。

桃園川
天沼弁天池の湧水と千川上水の分水を水源に、途中、善福寺川の分水、新堀用水を合わせて、杉並区、中野区内を流れ中野区、新宿区境の末広橋脇で神田川に注ぐ河川であった。現在は全て暗渠化され、地上は桃園川緑道などの遊歩道になっている。新堀用水合流点近くには高校生ゴルファー石川遼君が在学している杉並学院がある。
天沼弁天池は平成19年(2007年)杉並区の天沼弁天池公園として開園している。旧弁天池は埋められているが、庭園には池が作られている。旧建物は郷土博物館分館として活用され、また、防災倉庫が設置されている。

広場堰取水口付近

広場堰取水口付近

発見された地下暗渠 杉並区立郷土博物館常設展示図録

発見された地下暗渠 杉並区立郷土博物館常設展示図録

成宗五色弁財天社 弁天池 (成田東5-29)

成宗五色弁財天社 弁天池 (成田東5-29)

新堀用水開削のまとめ
~ 大規模工事成功のカギはこれだ!

当時、武蔵国に他の例を見ない灌漑用水確保の抜本的対策として、大規模水普請(新堀用水開削)に成功したのは、、三ヶ村の名主、村役人、農民が一致協力、懸命の努力をしたこと、幕府直轄領(天領)代官は農村保全安定のため、積極的に現地指導監督を行い自普請としながらも相当額の補助金を支出したことによるが、具体的事実として

(1)弁天池を中継池として、取水口から流出口まで、最短距離にして、かつ、自然流下に必要な高低差のある効率的用水路線を選定したこと。このため、あえて、矢倉台地、武蔵野台地を困難なトンネル工事としたこと。

(2)工事区域が幕府直轄農村(天領)、日枝神社領、御鷹場と入り組んだ地域で、それぞれの関係役所の許可を総合調整、智慧により解決したこと。(阿佐ヶ谷村日枝神社領域をトンネルとして、地上耕地の減少、影響を避けたことなど)「他領入会大普請」と史料に記されている。

(3)善福寺川流水の取水と用水路開削を行う二ヶ村側の理解協力を得るため、積極的な説明、説得をしたこと。(代官による指示を得る、角屋会談など)

(4)水普請の請負人に優れた経営管理能力をもった馬橋村名主大谷助次郎を得たこと。
(用水路建設に要した経費の収支の全てが記載されている「新規用水路引入自普請諸入用取調帳」により用水路建設勘定が算定できることなど。)

(5)用水路開削のための優れた高度の水盛り技術(用水路開削技術)をもっていた、水盛大工川嶋銀蔵が設計、施工、監督に充たったこと。(高低差 1/1000水路開削、トンネル工事など)

にあったと考えられる。

この用水完成により、中野村・高円寺村・馬橋村合計22町7反(22.7 ha.)の田(三ヶ村の田の45%)を潤し、その恩恵は大正時代まで続いた。
また、使用されなくなった用水路(図B)は、精米、製粉のための水車場への流水に利用された。

江戸近郊農村が灌漑用水保全維持のため、他に例を見ない優れた智慧と高度の土木技術を結集し、見事成功した「水普請」「他領入会大普請」として名を残す「新堀用水開削」は、現代の公共事業に通じる杉並の貴重な歴史としていつまでも記録に保存したい。

終日、自動車の流れる青梅街道の地下、杉並区役所前庭若者の塑像の辺りの地下深く、東北方向に、いまなお、用水路トンネルが埋まっていると推定される。

平成19年(2007年)秋、新堀用水路跡を辿った日、台地の上にたつと、真っ赤な夕日がたちまち家並みの向こうに落ちていきました。
天保12年(1841年)秋、用水路完成を目前にして、一日の仕事を終えた、水盛大工川嶋銀蔵さん、土木作業の人たちは武蔵野の果てに落ちゆく夕日をどのように見たのでしょうか。

杉並区役所東側付近

杉並区役所東側付近

新堀用水路開削工事の概要

■総延長・・・・・・(図A)-(図E)1260間(2270m) 
■内トンネル・・・ 2ヶ所(図D) (図F)650m 
■高低差・・・・・・ 2.5m(勾配 1/1000)

天保11年(1840年)工事
善福寺川広場堰取水口(図A) 田端村広場堰(大矢戸橋上流、荻窪団地西北) 

(既設用水路)-矢倉台地地下トンネル(図B) 

水車跡(共立大寮西) 

弁天池(図C) 

尾根筋地下トンネル(図D) 

区役所東側 

すずらん通り(元長生湯付近)
↓ 
石橋用水路合流 

桃園川流域流出口(図E) 

桃園川合流

天保12年(1841年)工事 (水路変更部分)
善福寺川取水口(図A) 田端村広場堰(大矢戸橋上流、荻窪団地西北) 

矢倉台地地下トンネル(図F) 

弁天池(図C)

新堀用水要図

新堀用水要図

DATA

  • 出典・参考文献:

    杉並区立郷土博物館常設展示図録 平成元年度版 杉並区立郷土博物館発行
    常設展示 「村の開発」
    杉並区立郷土博物館研究紀要第15号 平成19年 杉並区立郷土博物館発行
    平成17年度杉並区の指定登録文化財 平成18年 杉並区教育委員会発行
    杉並区史 昭和57年 杉並区役所発行
    杉並風土記 上巻 昭和62年 森泰樹著 杉並郷土史会発行
    杉並歴史探訪   昭和50年 森泰樹著 杉並郷土史会発行 
    熊野神社改築十周年記念尾崎誌 昭和54年 尾崎熊野神社発行
    杉並区の歴史 昭和53年 杉並郷土史会著
    武蔵国多摩郡馬橋村史 昭和44年 馬橋村史編纂委員会

  • 取材:高橋 初男
  • 掲載日:2007年12月07日
  • 情報更新日:2021年02月02日