井上惣左衞門さん

被「曝」者として

被爆者健康手帳を収得したのは平成3年5月、66歳の時でした。私は被爆の2日後に広島市内を歩いたことをずっと隠していたのです。
私は原爆を直接浴びたわけではありません。だから「私は被爆者ではありません。被『曝(ばく)』者です」と言うことがあります。それは「この体験を何とか後世の人に伝えたい、核兵器根絶運動に貢献したい」と思っているからです。そのためにも原爆被害の実情を『曝(さら)』す役目を果たしたいと思っているのです。
新潟の佐渡島で生まれ育った私は、広島で暮らしていたわけではありません。まずは、なぜ、原爆を落とされた2日後に広島市内を横断するようなことになったのか、旧制高等学校に進学した頃に遡ってからお話ししたいと思います。

憧れの第五高等学校に進学

旧制中学(現在の高等学校に相当)の1年生のときでした。
地元出身で陸軍幼年学校に進学した先輩が佐渡島へ凱旋帰島したかのように母校を訪問したことがありました。当時は戦事色一色、陸軍幼年学校の学生といえばエリート中のエリートです。
全校生徒が講堂に集められ、校長先生が先導して、その先輩は堂々と入場してきたのです。
靴音がするので不思議に思いましたが、そのエリート先輩の出で立ちを見て驚きました。信じられないことに長靴を履いたままなのです。
講堂は神聖な場所です。土足で入るところではありません。いくら当時の日本では最高エリートとも目される陸軍幼年学校の学生であろうと、それは私にとっては許せない振る舞いでした。
「こんなエリートには絶対ならない。我が身を見失うような人にはならない。自分で進路を決め、自分で人生を切り開いていくぞ」とその先輩を見て固く決意しました。
私にとって九州は開放的で先進的なところというイメージがあります。「そこでいろんなことを学びたい」と遠い九州の熊本にある第五高等学校に進学したのです。
佐渡島から熊本まで、汽車を乗り継いで3日かかるほど遠いところでした。

学徒動員先は母校に

昭和20年になると学徒動員により、大方の学生は軍需工場で働いていました。私は2クラスしかいない理科乙類(医学・農学系)の学生で、母校のキャンパスが動員先でした。体育館が三菱重工業の工場として使われ、そこで陸軍の飛行機「飛龍」を作っていました。
7月1日に熊本市はアメリカ軍のB29による焼夷弾爆撃を受け、市内は全滅状態になりました。母校のキャンパスは熊本市郊外にある竜田山のふもとでしたので、空襲の難からは逃れていましたが、機材の搬入が中断されたため1ヶ月の臨時休暇が与えられました。
戦争まっただ中の1ヶ月の休暇です。「これが最後になるかもしれない」と思った私は故郷に帰り、親に一目会っておこうと思いました。
帰省は切符を買うのも一苦労で、汽車の運行も乗ってみなければわからないという状況でしたが、何とか佐渡島へ帰ることができました。

運命の帰路

帰還命令が出た8月5日に生家を出発し、新潟県十日町にいた姉の家に立ち寄ってから、8月7日早朝に熊本に向けて出発しました。
経路は北陸本線で新潟から富山・金沢を回り米原に出ます。そこから東海道本線に乗り換え大阪へ。大阪から山陽本線で下関へ。下関から門司・博多を通り、熊本に出る予定でした。
8月7日に出発ですから、すでに原爆は投下されていました。しかし、その事実は何も国民に知らされていませんでした。広島で大惨劇が起こっているとはつゆ知らず、熊本に向けて出発したのです。
8月8日の午前2時頃だったと思います。広島駅の2つ手前の海田市駅で鉄道職員から「広島が空襲でやられて汽車は不通になった。ここからは歩いてください」と言われました。
満員の乗客が列を成して、真っ暗闇の中を歩いて広島駅に向かいました。
空襲を受けたとはいえ、広島に行けばなんとかなるだろうと思って、歩き始めました。
私は高下駄を履いていましたが、線路の砂利に足を取られ、どうにも歩きにくくてしようがありません。下駄を脱ぎ、裸足になって歩きました。線路に使われる砂利は玉砂利でなく砕石なので、これもまた大変で、私は遅れ遅れ歩いていました。

初めて見る広島は

そろそろ日の出になろうかという頃でしたから、朝の5時くらいでしょうか。ようやく広島市内にたどり着きました。
そこでは見たこともない光景が広がっていました。
私は何度も空襲に焼かれた町を見ています。熊本では都市機能が全滅するほどの、焼夷弾による空襲も見ています。それでも、この広島の光景はまったく違っていました。焼夷弾の場合は油の焼けた臭いがします。でも広島で嗅いだのは、何ともイヤな臭いでした。生ものが腐ったような悪臭が、町全体に漂っているのです。
日の出とともに明るくなるに従って、広島の町には家も木も何もなく、瓦礫だけが広がっているのが見えました。そして、おそらくは大木だったであろうと思われる、幹が焼けて細い柱ほどになってしまった炭のようなモノが、ぽつんぽつんとあちらこちらに立っていました。町には、あともう1つ大変な姿がありました。無数の人間の死体です。ちょうどたき火を消した直後に暖められた空気がゆらぐように、瓦礫と死体がぼうっとゆらいでいたのです。裸足で歩いていましたのでよく覚えていますが、地面には熱が残っていました。熱いというほどではありませんが、熱を感じました。
音がまったくしないので、静かでした。わずかに生き残った人の、かすかな虫の息が聞こえてくる以外の音はまったくしない街でした。
あとで知りましたが、このような状態を原子野というそうです。
「とにかく熊本に帰るんだ」、「西を目指して歩いて、汽車が動いているところまで歩くんだ」と私は歩き出しました。
広島の町に降りるのも初めてですし、まして町全体が瓦礫と死体だらけ。道もわかるはずがありません。とりあえず市内電車の線路に沿って歩き始めました。人の死体をまたぎながら。

少し歩くと焼けただれた市内電車がありました。電車内には黒こげの死体らしきものがいくつも見えました。それも片側にびしゃっと押しつぶされたように固まっていました。
どこをどう歩いたのかは覚えていません。原爆ドームの前もきっと通ったと思います。でもその記憶はありません。なぜなら、原爆ドームのような廃墟は至る所にあったからです。
その日はカンカン照りの晴れでした。陽射しをよけるものは何もありません。私は疲れると、背負っていたマントを広げ、所かまわず横になりました。のどが渇けば破裂した水道から水を飲み、持ち合わせていた握り飯をほおばりました。すぐ傍には焼けただれた死体があるのに、握り飯をほおばっているのでした。
人間というものは不思議な生き物です。広島に着いて初めて見た死体の山に対して、恐れや絶望を感じていたのに、何百何千と死体を見て、またぐたびに、何も感じなくなっていたのでした。
広島市内には7つの川が流れています。私は広島を東西に横断したので、おそらくその7つの川のすべてを横切っています。鉄橋では電車が転覆していました。どの川にも丸太のようにしか見えない死体が川の流れをせき止めていました。
己斐駅(コイ駅:現在の西広島駅)に着いたのは夕方でした。広島市内を歩くこと約半日、海田市駅からの行程は15時間あまりに及びました。
そこには、人がいっぱいいました。皆がぼうっと放心状態で立っていました。ほとんど裸同然のようでした。傍に山があり、枝葉の焼けた木が立っています。その木の傍らに人が寝ています。休んでいるのか死んでいるのかはわかりません。生きているとしても、もはや立っていられなかったのでしょう。そこまでたどり着くまでが精一杯だったんだと思います。しっかりしている人は汽車が来れば乗り込んで、どこかに行ったのでしょう。
1時間ほど待って、私も汽車に乗りました。汽車から見える家々のうち、広島の方を向いた屋根はどれもめくれ上がっていました。
熊本に帰り着き1週間ほど経ってはじめて、広島に落ちたのが原子爆弾というモノであることを知りました。流言飛語というのでしょうか、いろんなことを言う人がいて、とにかく放射能が恐ろしく、自分がどの程度その放射能を浴びたのか、誰にも言えず1人で悩み続けました。

憲法第9条の精神と核兵器根絶運動
核兵器根絶運動・反戦活動の支えとして、私たちには憲法第9条があります。この憲法第9条はアメリカから押しつけられたものじゃなく、第1次世界大戦後に締結された多国間条約のパリ不戦条約だと言われています。
これを否定するつもりはありませんが、私には1つ言いたいことがあるのです。それは憲法第9条の大元の精神を作ったのは、横井小楠(よこい しょうなん)だと私は理解しているんです。
横井小楠は熊本藩士であり、のちに福井藩に招聘されました。幕末に攘夷思想が広がる中で、開国を主張した人です。またそれだけでなく、戦争はなくすことができるという不戦論を主張した人でもあります。
縁あって私は熊本へやってきて、そこでこの不戦論を主張していた横井小楠を知ったことに縁を感じています。
この憲法第9条を守っていくためにも、子どもたちに私たちの体験を伝えたいと思っています。
原爆を受けて死んだ姿を私は実際に見ました。あの死は人間としての死ではないと思っています。人としての尊厳は、かけらもありません。この地球に存在してはいけない兵器だと思っています。
だけど現実はどうでしょうか? 減るどころかますます増えています。広島や長崎に落とされた何百倍の破壊力を持つ核兵器が作り出されています。これは人間のやるべきことじゃないと思います。
しかし私は人間として、核兵器根絶はできないことではないと思っています。できないのはやらないだけだと思います。このままではいつ第3の被害が起きないとも限りません。核のボタンを押した人は、その人自身も核兵器の反撃を瞬時に受けるでしょう。
核を利用する技術は素晴らしいことだと思いますが、それを兵器として使うことにはむなしさを感じます。

※この記事は井上惣左衛門さんのお話しをそのまま掲載したものです。

DATA

  • 取材:野見山 肇
  • 撮影:NPO法人チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2010年08月12日