狩野美智子さん

3月の下町大空襲後、東京を離れ長崎へ

当時私は女学校の生徒でした。長崎の県立女学校へ転校する以前は東京におり、父の転勤で既に九州に移っていた家族と離れ、私は一人東京で寄宿舎生活を送っていたのです。東京の空襲は日に日に激しくなっていましたが、それでもみな普通に生活は送っているわけで、女学校の毎日はとても楽しい日々でした。しかし、戦争が激しくなるに従い、学徒勤労令が発令され、学校でのお勉強はなくなり、私たちは工場勤務となりました。動員先はライオン歯磨きの工場でした。

東京は3月10日に下町の大空襲があり、その工場も焼け、私も疎開のために家族のいる長崎へ向かうことになりました。寄宿舎の先生がお弁当に蒸しパンを作って下さり、やせっぽちだった私は、子どもなりに知恵を働かせ、手荷物を減らそうと24枚衣類を重ね着して3月23日の朝早く、一人で東京を発ちました。普通なら30時間くらいの道のりを、途中空襲による足止めなどで、結局長崎にたどり着くまで足かけ3日かかりました。持ってきたお弁当はとっくに食べきり、後は何も飲まず食わず。そういう時代でした。

狩野美智子さん

狩野美智子さん

突然の爆撃、一瞬ですべてが押し潰された

連日連夜の空襲に脅かされていた東京に比べ、長崎は空襲も少なく、とてものんびりしていました。私は県立女学校へ編入したのですが、三菱兵器茂里町工場が動員先で、その工場では魚雷が作られていました。工場では、魚雷の隔壁という部品を組み立てる作業所で、真鍮の円盤の内側の穴にタップでねじ山をつけ、ビスをハンドルでしっかりと締めこみ、その上をハンダ付けする、という工程を行っていました。

東京から長崎に転校して4ヶ月半が過ぎた頃のことでした。その日は、隔壁の仕事ではなくて、作業台に座って皆と小さな部品を磨く仕事をしていました。長引く戦争のための物資不足で、魚雷を作る原料が不足していたのでしょう。8月9日、11時2分。何の前触れもなく、猛烈な爆風に突然襲われ、強い閃光が光ったことは感じました。それと同時に工場がいっぺんに押しつぶされました。何もかもがひっくり返ってゴチャゴチャに降ってきて、それと一緒に体が押し流されてゆきました。時間の経過といった感覚など全く記憶になく、気がついたら何もかもがめちゃくちゃで、私の頭上にはトタンがあり、立ち上がってみると、瓦礫の中にいました。見渡せば、広大な敷地に並んでいたはずの多くの工場の建物が、全てなくなってしまっていました。
8月6日に広島で特殊爆弾が投下されたことは新聞などの報道で知っていましたので、同じものか、と思いました。新聞では特殊爆弾の被害にあわないために「白い洋服を着るとよい」と言っていたのです。そんなもの、なんの効果もないのに、まじめにそう報道されていました。

友人と共に、安全な場所を求め

とにかく防空壕へ行こう、と思い、瓦礫の中から外に出ると、後ろから友人の本多サワさんが声をかけてくれました。そして2人で防空壕へ行こうとした時、目の前に体が異様に黒くなってしまった男の人がふらふらしていたので、サワさんと二人で両方からその人を抱えて防空壕へ向かいました。

防空壕は、工場の門を出て電車の通りを隔てた小さな丘に掘られていたのですが、壕の中はすでに人でいっぱいでした。連れてきた人をそっと寝かせましたが、その人と言葉を交わしたかどうかは覚えていません。軍人勅語を声高に唱える声が壕の奥から聞こえていました。

10分程度留まっただけですぐに2人で壕の外に出ると、数か所から煙が上がっているのが見えました。2人で相談して壕の上の丘によじ登ると、そこは墓地でした。爆風でほとんどが倒れている墓石には、人が生れ死んだ日付が掘られていて、その光景を眺めながら「自分の没年は今日だろうか」と思いを馳せたことを覚えています。

倒壊した家々の残骸を渡って

墓地から、工場と反対側に人家が立てこんでいる一帯があり、その向こうに山がありました。山まで行けば必ず助かるだろう、そう思い、また歩き始めました。山の手前に立っていたはずの家々はすべて爆撃によって潰れてしまい、どこが道かも分からなくなっていました。あちらこちらでくすぶる火から煙が上がる中、その下には多くの人がいたのでしょうか、崩壊してしまった家々の残骸の上を、サワさんと2人で手をつないで渡り、山を目指しました。

途中、2人の子供を連れた女の人に出会いました。怪我をしていたその女の人は、子どもだけでも安全な場所に連れて行ってくれないか、と私たちに頼みました。2人の子どもは4歳と6歳くらいの男の子でしたが、何も衣類を身に着けておらず、まったくの裸でした。私とサワさんは、子どもを1人ずつおぶいながら山へ連れてゆきました。途中、子どもたちとは一度も口をききませんでした。山に辿り着くと消防団の人が救護活動を始めていたので、子どもたちを預けました。
山に着いて、サワさんと2人で中腹に座り込み、もう何も感じることもなく、防護袋に入っていた炒り大豆を少し食べました。あたりはうす暗くなり、雨が降ったり止んだりしていました。原爆によって降る「黒い雨」だったのでしょうが、その時はもちろんそんなことは分かりませんでした。夜になっても、米軍機が落とす照明弾に何度も起こされました。
夜が明け、山を反対側に降りて自宅に帰りました。被爆地から約3.5キロのところにあった自宅は、ガラスが割れたり窓わくが飛び出したりしてボロボロではありましたが、何とか形は残っていて助かりました。

「解放」の日だった終戦宣言

8月15日の終戦宣言を、雑音の入ったラジオで聞きました。とてもうれしかったですね。さまざまなものから解放されるのだ、と思いました。私はまじめな学生ではなかったので、たとえば竹槍の訓練1つをとっても、そんなことをして何になるのだろう、と疑問に思っていました。特殊爆弾を持つような国を相手に、そんな竹槍で勝てるわけがありませんから。でも、たとえ子どもであっても、そんなことを言うと「スパイだ」「非国民だ」と言われる、そんな時代でした。子どもがスパイになどなれるわけがないのに、大真面目にそう思う人もいた一方で、私のように、軍国主義への疑問を持つ者も、やっぱりいたのです。生命を脅かす空襲や言論に対する規制、その他数多くの制限から解放されることは、とてもうれしかった。

終戦から長い時間が経過して、その間フタをしてきた部分もあったような気がします。戦争を知らない、とよく言いますが、例えば本を読むなどその実態を垣間見たり、知ったりする方法はいくらでもあります。このまま風化させずに伝えることも、戦争を体験したことのない人に過去の歴史を残すのも大切なこと。こうして私の経験を語ることで、少しでも風化を食い止め、痛ましい歴史を伝えることができたら、と思います。

DATA

  • 取材:野上優佳子
  • 撮影:NPO法人チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2008年08月13日