奥川禮三さん

墨田区本所区(現墨田区)で過ごした子ども時代

僕は宇都宮・塙田の生まれで、物心がついた頃は住まいのある本所のドブ板を下駄をならして遊びまわっていました。当時は義父、母、義兄(2人)そして僕。義父は草履職人でした。
本所っていうところは職人やお相撲さんも多くてね。もともとのんびりした町なんですよ。小さい頃の僕はまさしく悪戯小僧でね(笑)。そこらじゅうを駆けめぐって、毎日、近所の友だちと遊んでましたよ。遊び場っていっても、道路だったり、神社の境内だったり、お寺さんの広い庭だったり。少しでも空き地があれば、それはもう遊び場になったんだよね。大人たちは生活に追われて色々と大変だったのかもしれないが、子どもだったんで、そんなことは全然おかまいなしだからね。楽しい子ども時代だったね。
でも2.26事件(注釈1)盧溝橋(ろこうきょう)事件(注釈2)が次々と起こり、子ども心に「これは戦争が始まって、僕たちも大きくなったら兵隊さんにいくんだな」って思い始めました。そう、ひたひたと戦争が始まることを子ども心に肌で感じてましたね。
[写真:奥川禮三(れいぞう)さん]

(注釈1)2.26事件は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件。
(注釈2)盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件。この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線となった。

太平洋戦争勃発

中学1年の12月(1941年)太平洋戦争が開戦。学校へ行く途中のラジオで「臨時ニュースを申し上げます。わが国海軍は本日未明米国の真珠湾を攻撃し、わが国は米・英と戦闘状に入れり」と耳を疑うような声を聞き「あぁ、これで戦争が始まったんだな」と妙な興奮状態になりました。学校についたら案の定「戦争だ!戦争だ!」と教室は沸き返っていました。今の人たちには全く信じられないかもしれないけれど「もう日本は勝った!」というような気持ちになっていたんだろうね。これは僕だけではなく、ほとんどの生徒たちがそうだったと思いますよ。その日は先生までも「お国のために戦っている兵隊さんを思い、気を引き締めて勉強に励むように」と言われてね。それまで日清日露戦争をはじめ、ほとんどが勝ち組できているわけだから、日本は強い国だと教え込まれてきたんです。いつも勝ち戦しか知らない子どもたちは、日本が負けるなんて全く考えたことなく成長してきたということだね。それからあとは戦争まっしぐら。生活のすべてが軍事一色になっていきましたよ。もちろん学校も同じ。そういえば体育の時間にね、相手を殺す訓練をするんだ。今の時代なら全く信じられないよね。でも僕たちはそれこそ必死に一生懸命やりましたよ。考えてみると、これも日常の生活が戦争に巻き込まれていった、ということになるんだよね。

街は段々と戦争一色

1942年、僕が13歳の時に長男の義兄に召集令状が届き、出征。翌年は次男の義兄が兵隊にいきました。その頃は「ほしがりません、勝つまでは」などの標語が氾濫し、ますます街中が戦争一色に染まっていったんだよね。町でも「○○さんのおじさんに赤紙(召集令状)がきたらしいよ」とすぐに噂が広まるんだよ。けっこう良い年のおじさんも召集令状が届いてたね。そして近所では出征の日に「万歳!万歳!」と旗を振り励まして駅まで見送り行進。いったい僕は何軒見送ったただろうな。送り出した家の人たちは、そのあとだいたいは田舎に帰ったり、引っ越したりで、いなくなることが多くなってね。街もどんどん寂しくなっていきました。

家では灯火管制の規制、工場は戦闘機機銃掃射

1942年4月のはじめての本土空襲以降、徐々にB29(アメリカ戦略爆撃機)が東京に来襲することが多くなってきました。
僕は1943年に中学を卒業と同時に、立川にあった陸軍航空工廠(こうしょう)に入所。最初は寮に入っていましたが、翌年からは、中央線に乗って自宅から通勤していました。1945年に入ると空襲もいよいよ激しくなり、艦載機が工場まで飛んできて機銃掃射をするようになってね。搭乗員が見えるほどの低空で飛び、何機も連続で襲ってくるんだ。あれは本当に怖いよ。そんなことがしばしば日常に起こっていたし、同じ工場で働く工員が被弾して死亡するなどの被害を受けて。ショックだったね。でもそんなこと思う暇もないうちに、自分も敵機の進路から右へ走り、左に駆けるなどして銃撃から身を守るということが続きました。あれは本当に怖かった。
 
家では義父、母も家業のかたわら真剣に疎開の準備をしていました。でもいっぺんには送ることはできないから、少しずつ荷物を送るんだよ。家の中から少しずつ家財道具が無くなっていくのに、なんだか寂しさを感じたけど、戦争だからね。寂しさなんて感じる暇もない。
空襲でヒュルヒュルヒュルーと音が聞こえるときは少し遠い、ザァーっと聞こえるときは危ないとか、近所ではそんな話ばかり。その頃になると灯火管制(戦時において灯火を管制し、電気、ローソク等の照明の使用を制限すること)も厳しくなっていて、少しでも光が漏れようものなら「洩れてるぞ!」と激しく戸を叩かれたものだよ。
[写真は、奥さんのみどりさん。灯火管制を再現していただいた]

運命の日、東京大空襲

立川の工場にいると、戦争の様子がなんとなくわかるようになるんですね。この頃は僕、二人乗りの偵察機を組み立てて作っていたんだけど、急激に部品が入ってこなくなったんです。工場も空爆を受ける回数も段々増えてきました。
東京大空襲(1945年3月9日未明~10日)の2、3日前は僕はひどい口内炎で工場を休んでいました。午後8時頃に空襲警報が鳴ると同時に、「敵機来襲」という連呼がまわりから慌ただしく駆けめぐりました。普段の空襲警報が鳴った時と同じように、義父も母も避難の服装に着替え、貴重品を身につけていました。この頃はもう空襲警報は慣れたもので「今夜は静かだな」なんて語り合ったりしていましたが、僕は何か気になるので外に出てみました。その日は月夜だったのかもしれません。記憶が定かではないのですが、空を見上げるとB29の機体がくっきりと三機、五機とまとまってこちらにやって来るのが見えていました。数分のうちにまわりがシャーシャーと音をたて始めました。隣組の誰かが「○○さん宅に落ちた!」と叫ぶ。僕は防空頭巾をかぶって、焼夷弾の落ちたお宅に駆けつけました。竹竿に藁(わら)縄を巻いて、水を含ませて火に立ち向かいましたが、いっこう火は消えません。隣組の誰かが「駄目だ!駄目だ!」と叫び、僕はその場を離れました。

空襲の下で、両親との生き別れ
家に戻った僕は義父と母に「ここにいてはあぶない!逃げるんだ!」と2人に叫び、義父と母は大きな風呂敷包を背負いました。僕は自転車に何枚かの布団を括り走り出しました。でも二人とも疲れているようで、なかなか前へ進みません。特に義父は喘息の気があったため、ここは少し休ませようと途中の防空壕で背負っていた荷物を置き休ませました。すると母が「忘れ物があったから取りに行く」と言い出しました。僕はここを動かないようにと2人に言い残し、代わりに僕が自宅へ戻って忘れ物を取りに行くことにしました。その後、自宅に戻って忘れ物を見つけ、二人の所に戻るともういない。結局、防空壕で一緒にいたのが義父の姿を見た最後の姿になるのですが…。「おやじ!おふくろ!」と僕は叫びましたが、防空壕はどんどん焼けていき、熱気でその場に立っていることも出来なくなりました。
辺りはどんどん火が強くなり、たくさんの家々がすごい勢いで燃えていました。火の粉を避けながら、自転車で両国橋に進み、空き地へ逃げ込みました。そこには皮膚が焼けただれた人、顔がすすで真っ黒になった人、ある女性は赤ん坊を背負っていましたが、その赤ん坊は首をぐったりさせていました。たぶんその子は亡くなったいたのかもしれません。
 
容赦なく降りかかる火の粉を振り払いながら、ようやく夜が明け、朝になると火勢もおさまったので自宅の方に戻ってみると…。家は無惨に焼け落ちていました。それから義父、母を捜しに行きました。近所の水道局事務所の方からぼろぼろの衣服で焼け焦げた髪、裸足で真っ黒な顔の女性がこちらに向かって歩いて来ました。よく見ると、それはおふくろだったんですよ。僕は「おふくろ!」と言って抱き寄せ、母は泣くばかり。彼女は恐ろしさの記憶をなくしてしまったようで、なぜ自分が助かったのかわからなかったみたいです。

一晩で10万以上の人の命が消えてしまう
この後の光景は、本当にいま思い出すと辛いです。母と対面した後、僕はまたすぐに義父を探しに行ったのだけれど、放水路の脇、家の石垣、そこには男女、大人、子どもの区別もつかないほどに真っ黒に焦げた人たちが横たわっていました。遺体は散乱し、これが前日まで団欒をしていた家族の姿なんだろうかって。思わず目を覆いたくなる風景で…本当に辛かった。でも義父を探すために僕はありとあらゆる場所を探しましたが、結局義父は見つかりませんでした。

うれしかった終戦宣言
そんな惨状を目にしたにもかかわらず、母を川崎の叔父のところに預け、2、3日後に僕は立川の工場の勤めに戻りました。家が無くなってしまったので、そこの宿舎で生活できるようにと計らってくれました。そして工場が埼玉県高萩へ移転。この頃になると、工場で製造するのに使う部品が入らなくなってきました。造った飛行機を工場から送り出すのだけれど、
「これはもう駄目だ」ってわかるんですよ。毎日飛行機を作っていたからね。
でもそんななかの楽しみは、夜、皆で修理しているときに聞く短波日本語放送。これはこっそりと聞いてましたよ。また、この頃から日本が降状するという噂が僕たちの間では流れていました。
そして運命の8月15日。朝、週番士官が「本日正午に大事な放送がある。中庭に5分前に整列すること!」いう命令。「この暑いのに、そのうえ整列かよ」と僕たちはぶつぶつ文句をたれながら、200人近い工場の人間が整列。
「ただいまより『天皇陛下の玉音』を拝受する。全員頭を垂れ拝聴する」と命令しました。
「…ポツダム宣言を受諾し、無条件に降伏する」
これが天皇陛下の声なんだ、と思う間もなく、「やった、戦争は終わった!」「万歳!」あちこちから叫びの声が上がりました。僕も「長かったな。終わったんだ!」と両手を思い切り上げました。これで空襲やその他の制限から解放される!と。本当にうれしかったね。

僕が戦争の話をするようになったのは数年前からなんです。それまではあまり話をしなかった…、というかしたくなかったのかもしれない。気持ちにフタをしていたのかな。でも僕も歳なので、できる限り平和を語り継いで行ければと思っています。とにかく戦争は絶対にやってはいけない、これからもずっとね。


奥川さんは、2013(平成25)年12月に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

DATA

  • 取材:高橋貴子
  • 撮影:NPO法人チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2009年08月13日