「杉並区」は東京23区の西の端にあり、広さは約34平方キロメートル、人口は約52万人におよんでいます。
杉並区は昭和7(1932)年10月1日、東京の市域拡張に伴って誕生しました。それから70余年経った今日、区役所の屋上から見渡すとどこまでもギッシリと家々が連なっていて、地平線のかなたまで大きな市街地を形作っているように見えます。
仮に、目を閉じて太古の時代の火山灰が降り積もり、見渡すかぎり一面の荒野であった光景を想像して見てください。いったいいつ頃からこのような土地に、人が住み始めたのかを考えると夢のように楽しくなります。
つい最近、平成17年7月に高井戸小学校の校庭で発掘調査が行われました。石器と一緒に出土した木材片から、正確な年代がわかり3万年を越える石器時代の遺跡であることが確認されたと新聞などで報道されました。
すでに30年ほど前に、やはり神田川や善福寺川流域の遺跡から石の斧やナイフ形の石器などが発掘されていて、約3万年前から杉並に人が住んでいたことが明らかにされていましたが、正確な年代がわかったのです。
やがて、約一万年前頃から食物を煮たきする用具として粘土を固めて焼いた土器が使われ始めます。区内ではその初期から人々の生活が確認されていますが、縄文土器やその破片が発掘された遺跡は区内に数多く、井草、川南、済美台、松ノ木、塚山などの名があげられます。
狩猟中心の生活から稲作中心の生活への文化が伝わって来ます。その弥生文化が区内で確認されるのは、弥生時代の後半からとなります。善福寺川や神田川の清流のほとりや湧水に近い崖の上など小高い所に萱葺きの竪穴住居ができていたことを松ノ木遺跡や方南遺跡が示しています。 農耕の開始により富の差が生じたり、水田耕作が共同の社会を必要とするため指導的立場をする階層の人たちが出てきたと考えられます。大宮八幡宮の北側にある方形周溝墓から勾玉やガラス玉の装身具が発掘されています。これは豊かな階層の人物が生前に身にまとっていた装身具を一緒に埋葬したものと推察され、そのような生活文化の存在を物語っています。
原始時代が終わると日本史の教科書は、大和朝廷の統一、大化改新、平城・平安遷都など11世紀くらいまでの近畿を中心とした政治の流れを記述しています。はるか東国の、荒野の中に点在する杉並の村落についての記録はほとんどありません。しかし、ただ一つ、古代の東海道と東山道を結ぶ官道上の一駅として「乗潴」駅が『続日本記』のなかに出て来ます。この駅の訓が「あまぬま」で現在の天沼にあたると考えられています。中世(12~16世紀)に入っても、杉並の歴史についての記述はあまり残されてはいません。しかし、和歌山県那智熊野大社所蔵の文書の中に「あさかやとの」と区内阿佐ヶ谷の地名を名乗る人物や、室町幕府の出した文書の中に、「堀之内、下荻窪、泉」という区内の地名が記され、江戸時代へと続く集落の形成を窺わせます。
区内には江戸時代以前からの集落を引き継いだと考えられる村々や、江戸時代前期に新たに開拓された新田村(中高井戸・松庵・大宮前新田)など20の村がありました。
それらの村の支配は、江戸の近郊は幕府の直轄領とする方針であったため、幕府領(天領)とされたものが多いのですが、中には旗本領(内田氏・今川氏など)や寺社領(日吉神社・大宮八幡宮)、幕府領と旗本領に分割されていたものなどがありました。
天正18(1590)年徳川家康は江戸城に居を構え、慶長8(1603)年に幕府を開きました。家康が先ず最初に手をつけたのは江戸のまちの整備でした。江戸の町の飲料水として神田川や善福寺川の清流を神田上水として利用したり、五街道の一つ甲州道中(街道)が整備され、その最初の宿場として、区内の上・下高井戸に宿場が設けられたりしました。
また、江戸城修築の漆喰を運ぶために青梅街道が開設されたり、市中の人口が増加してくると、承応3(1654)年には新たに水源を多摩川の羽村に求め、四ッ谷大木戸までの43キロメートルに及ぶ水路を開設し、玉川上水を整備しました。その経路は区内南部の久我山から高井戸、和泉を通っていました。これらの開発や施設維持のため、区内の村々には更に負担が課せられていました。
300年間、江戸幕府のもと純農村地帯であった杉並も、明治維新によって激動の歴史にさらされることになります。江戸から東京へと移り変わるなかで、行政区画も次々と変更され、杉並の地域も品川県に入ったり、廃藩置県で新たに設置された神奈川県に入ったりしましたが、明治5(1872)年、再び東京府に編入されることになりました。
明治5年4月戸籍法が施行となります。従来の身分別の支配を改め、居住する区域に基づいて戸籍を定めることとするもので、このために全国的に大区を設け、その中をさらに小区に区分けしました。杉並の全村は東京の第八大区に属し、上高井戸、下高井戸、久我山、大宮前、中高井戸、松庵の6村は第五小区に、阿佐ヶ谷ほか残りの14村は第六小区に編入されました。
大・小各区には江戸時代の名主にかわり政府が任命した区長、戸長が置かれ、また小区の中の村々に副戸長が指名され、事務を執りました。
戸籍法の改正を手始めとして、新政府は新たな制度、法律を次々と定め、新しい国家体制を確立して行きました。 明治11(1878)年、郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の3法が公布され今日の地方自治法の基が作られました。この法により大区小区制は廃止され、東京府は都心15区と周辺6郡となります。杉並は東多摩郡に属することになりますが、明治29(1896)年東多摩郡と南豊島郡が合併して豊多摩郡となりました。
大・小区の廃止によって、今度は近隣数カ村が連合して戸長と役場を共同設置し、各村から代表議員を選んで村会を構成する連合村制が発足しました。江戸時代からの20カ村は6連合村に統合されます。しかし、画期的な自治の形が整ったものの、現実は知事-郡長-戸長ラインによる諸権限で村政は進められた模様です。
明治22(1889)年新町村制の制定によって、6連合村から4合併村に改まりました。すなわち和田堀内村、杉並村、井荻村、高井戸村の4村であり、この時初めて「杉並」の名称が用いられて今日の区名の基になりました。
この「杉並」の地名は江戸初期に成宗、田端両村の領主であった岡部氏が領地の境界のしるしとして青梅街道に沿って植えたと言われる杉並木に由来するものです。
大正12(1923)年関東大震災が都心部を壊滅させたため中央線の便を頼って多数の市民が杉並・井荻などに移り住み、人口は急増しました。このため、大正13(1924)年杉並村が町になり、大正15(1926)年残り3村も同時に町へ変わりました。
昭和7(1932)年10月、東京の市域拡張が実現するのに伴い、新設の20区の一つとして杉並4町は杉並区を構成することになりました。
それから70余年、杉並区は太平洋戦争の戦前、戦後、東京オリンピックを境とする高度成長下の人口膨張期を経て、今また少子高齢化の時代を迎え、新たな成熟を目指す市街地へのあり方を模索しています。
私たちが愛着を感じつつ住んでいるわが杉並の変遷とその先き将来を見つめて行きたいと考えます。
杉並郷土史会 杉並区の歴史 昭和53年 名著出版
田村 明 江戸まちづくり物語 平成4年 時事通信社