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善福寺川流域の昔と今

善福寺川は、善福寺池の湧水を水源とし、区内中央部をを西北から東南へ流れる荒川水系に属する一級河川です。

流域には古代遺跡が残され、中近世は水田、畑として農産物を生産してきました。大正、昭和初期には、高台の景勝地には別荘、高級住宅が建てられ、戦後、流域は埋立てられ公園、緑地、運動場など区民の憩いの場となっています。また農地は宅地化され、都市住宅街となりました。

平成19年8月5日に、善福寺川沿いをルートに区内を歩く真夏のイベント「知る区ロード2007」が開催された際、この善福寺川流域の古い写真と今の写真を見比べることによりその変化を探り、さらに将来を考える一助となれば…と、当サイト「すぎなみ学倶楽部」写真館所蔵の古い写真等を活用して、善福寺川沿いの「昔」と「今」の写真をパネル化し、展示しました。
ここでは、そのパネルの「すぎなみ学倶楽部版」を公開しています。

大宮橋に設置したパネル

大宮橋に設置したパネル

歴史写真アルバム 荻外荘 荻窪付近

(1)昭和史に残る荻外荘
善福寺川春日橋左岸の松林の高台に、運命の宰相といわれた近衛文麿公の旧宅「荻外荘(てきがいそう)」があります。
当時は、善福寺川を隔てて、はるか富士山を望む景勝地でした。
荻外荘では昭和史に残る、昭和10年代から太平洋戦争に至るまでの国家存亡をかけた重要な会談が行われました。
その間、近衛公は三度総理大臣に任ぜられ、中国との軍事衝突の不拡大、太平洋戦争の回避に努めましたが果たせず、その後も和平工作を続けましたが、ついに実現できませんでした。
昭和20年12月6日、戦争犯罪人容疑者として巣鴨刑務所に出頭の日、自ら命を絶ちました。

(2)天保の大土木新堀用水跡
天保・新堀用水は、天保の飢饉を契機として、桃園川流域の中野、高円寺、馬橋村の水田を満たすため、善福寺川田端広場堰から引き水して桃園川流域に流し込むため掘削した延長2.27km(うちトンネル部分0.65km)の用水路で、天保12年(1841年)に完成しました。
(杉並区萩窪3丁目~杉並区阿佐ヶ谷南3丁目まで)
この用水により、三ヶ村の水田は、旱魃が無くなり、恩恵は大正時代まで引き継がれてきました。
杉並の土木技術遺産として永く記録保存したいものです。

荻外荘付近

荻外荘付近

杉並区萩窪3丁目~杉並区阿佐ヶ谷南3丁目まで

杉並区萩窪3丁目~杉並区阿佐ヶ谷南3丁目まで

歴史写真アルバム 西田端橋

(3)西田端橋あたり
昭和29年頃の西田端橋あたりは水田でした。その後、埋め立てられて萩窪団地が建設されています。
昭和29年頃の西田端橋は田圃の中の木橋でした。

『杉並区水田のこりておぼろなり』
杉並区に住んだ俳人、水原秋桜子さんの句です。
昭和30年頃の杉並区には、まだ86ha.の水田が残っていました。

『辛夷(こぶし)咲き
  善福寺川縷(る)のごとし』
こぶしの花が白く咲き、善福寺川はどこまでも糸のように細く流れていきます。

(4)成宗田園 天王橋
天王橋から青梅街道方面を眺めた写真です。
今、「すぎまる」バスが通る鎌倉街道は、昭和29年頃は田圃の中の砂利道でした。田圃は子ども達の遊び場でした。
網を持って歩いている子もいます。

西田端橋

西田端橋

成宗田園

成宗田園

歴史写真アルバム 五日市街道 尾崎橋

(5)五日市街道 尾崎橋
五日市街道が善福寺川を渡る尾崎橋あたりは、旧街道の難所「尾崎の七曲り」といわれたところです。
大正11年に高低差をなくし、緩やかなカーブの都市幹線道路となりました。
尾崎田圃は埋め立てられ善福寺川緑地となり、春はお花見の名所となりました。

(6)嵯峨侯爵邸跡
「流転の王妃」といわれた、嵯峨実勝侯爵の長女浩さんは、昭和12年4月23日満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)氏の弟溥傑(ふけつ)氏との結婚のため、祖父嵯峨公勝侯爵邸(現郷土博物館所在地)を出立ました。
結婚後は、太平洋戦争、ソ連参戦、満州国解体など、激動の時代を過ごされ、昭和62年6月北京で亡くなられました。
浩さんは日中友好の思いを込めて「流転の王妃」を著しました。この著作は映画化、TVドラマ化もされました。

この、嵯峨侯爵邸跡地に平成元年杉並区立郷土博物館が開館しました。
郷土博物館では平成2年に」「愛新覚羅浩展」を開催しました。開催期間中の来館者は8,060名に達しました。

五日市街道 尾崎橋

五日市街道 尾崎橋

嵯峨侯爵邸跡

嵯峨侯爵邸跡

DATA

  • 最寄駅: 荻窪(東京メトロ丸ノ内線)  荻窪(JR中央線/総武線) 
  • 取材:高橋 初男
  • 掲載日:2007年12月17日