皆さんは「編機(あみき)」を知っていますか? 平成生まれの方の中には知らない人も多いと思います。編機は、簡単なハンドル操作で編み目が作れるもので、横幅1m、奥行き20cm程と家庭で使う道具としては、かなり大きなものです。
日本が戦後の混乱期からまだ抜け出せないでいた昭和20年代半ばに、編物が早くできる機械として売り出されました。一時は女性たちの間で大ブームとなり、次々と新製品が発売されますが、セーターやカーディガンなどの安価な既製品が出回るようになってからは、愛好者もぐんと減ってしまったようです。そんな編機にまつわるお話を、編機の愛好家であり指導者である山岸澄子さんと、編機メーカー「シルバー精工株式会社」家庭機器営業部課長の蛯原かつ子さんに語っていただきました。
--編機との出会いは?
主人は、女の人でも何もしないで家にいるよりも何か手にわざをつけた方がいいという考えでしたので、主人がすすめてくれて習い始めました。
--編機を習い始めたころの様子を教えてください
編機を習い始めたのは、昭和26年。東村山に住んでいたので、そこのお教室に通いました。その後昭和27年に杉並に越して来て、今はピーコックになってしまった所にあった「メリノ編物手芸学院」に子供を連れて編機をぶら下げて通いました。近くの公園で子供を遊ばせておいて、その間にお稽古をしました。
私が入学した昭和27年9月には新規の生徒が30人、10月にも30人入って、普通科は3ヶ月でした。8,9,10月に入った3ヶ月の人たちが高等科へいくのですが、もう20人位に減っていました。ちょっと編めるようになればそれでいい、という人が多かったのです。でもメリノの先生はもっときちっとした教材をたくさんお持ちでしたから、私はむさぼるように一生けん命勉強しました。
最初に私が見た編機は教室の皆様が使っておられた「矢式」の機械でした。長い物差のような矢を右から左からと機械に通して編むので、幅広い場所が必要でした。丁度その頃「矢」に代わって小さなハンドルで矢と同じ役目をする編機が出ましたので、先生にすすめられてその「トップ」というのを買いました。「矢」は使いませんが、針の上に糸をのせてハンドルで針をひっこめガシャンと針から糸を外して1段編むというスタイルは「矢」と同じでした。
この「トップ」の針の本数は130本でした。その前に出ていた編機は太糸用の120本のと中細等用の160本のがありました。130本なら両方兼ねられると買ったのですが、やはり足りなくて160本のを次に買いました。「アルス」の細糸用です。
暫くすると編糸を自分で針の上に乗せて編むのでなく、糸を通したキャリッジを左右に動かすだけで編める機械が出来ました。動針型といいます。編地が浮き上がり易いので編地におもりをぶらさげて編みます。(これは現在も変わりません)。その中にコロナ編機というおもりを全然使わず、小さなふりこが針と針の間についた編機が出来ました。おもりを使わないのが魅力で、先生にすすめられて買いました。
さらに「荻原式」や「トヨタの両鈑機(ゴム編用)」など次々に購入しました。その頃「おいらの月給13,800円」という歌がはやっていましたがトヨタの両鈑機はそれと同じ位の高い買物でした。
昭和40年代に入ると、パンチカード編機(編みたい模様の穴を24目1模様で作り、セットすればその模様が編める)が登場し、50年代になると電子編機が発売されて、パソコンで複雑な模様が作れるようになりました。機械が進歩する度に購入して来たので、20台位買ったと思います。よく使ったのもあるし、メーカーの講習会に行って勧められて買ったけれど、一度きりしか使わないものもあるでしょう。
はじめは先生の教室でお客様から受けた作品を綴じるお手伝いをしていました。主人はそんなつまらないことはやめて、自分で立派な作品を編みなさいと言ってくれましたが、綴じをいろいろやってみて要領がだんだんわかって大変勉強になったと思っています。
昭和29年には日本編物協会に入会させていただき、講習会に参加していろいろ勉強しました。そうこうしている中に、近所の人が本を持って聞きにくるようになり、編んで下さいと頼まれることも多くなりました。それで大した宣伝もしませんでしたが、人づてに段々ひろまって何時の間にか教えるようになりました。
ブラザーやシルバーの会社から編物教室の看板を立てていただきました。メーカーの講習会にもよく行って新しい編機の新しい編み方などいろいろ教わりました。でも余り進歩しすぎて編機が「ここで何目減らしなさい」とか編み方の指示を声でするようになったので、それはいやでその編機は買いませんでした。
そこまで進歩しなくても、編機の使い方が難しくなりすぎ、値段も高くなりすぎたので、だんだん編機が売れなくなったのだと思います。それにつれてあれほど沢山あったメーカーも少しずつやめてしまい、今編機を販売しているのはシルバー1社だけになりました。ブラザーの部品がこわれたりするとシルバーの営業担当の人にブラザーの部品の取り寄せをお願いしているような状態です。
子供服から、婦人物、紳士物なんでも編みました。編み賃は昭和30年頃で、小さなセーターが400円位、婦人用カーディガンでも700円位だったと思います。市販品が今ほど沢山出回っていませんでしたし、買うより安かったのでよく頼まれました。
昭和30年代から40年代頃はとても沢山いました。お勤めの若い人達のため夜間部(6時から9時まで)でも教えていましたから、昼夜合わせて多いときで30人位いたと思います。私一人では教え切れなくて古い生徒さん達に手伝って貰ったこともありました。でも女の人も会社でだんだん重要な役職につくようになって、8時頃になって「まだ会社にいるんです。今日お休みします」と電話がかかってくるようになり、少ない生徒のために私の身体が疲れてはと何年か前に夜はやめました。
月・水・金の教室がある日は4時に昼の部が終わって、6時から夜の部が始まるので夕食も大急ぎで作って大したものは食べさせられませんでしたが、「お母さんは編物の先生」と思っていましたし、主人は私に編物をすすめた人ですから何も言いませんでした。主人は昭和39年に役所をやめてから、パソコンでいろいろ模様を作って楽しんで編んでいました。テレビで鶴の飛ぶ形を一生けん命研究してお揃いに作ってくれました。主人が亡くなった時は、息子がお棺に主人の分を入れてやりました。
シルバー精工株式会社 家庭機器営業部課長 蛯原かつ子さん(荻窪在住)にお話をうかがいました。
当社の創業は昭和27年の10月。杉並区上高井戸の地で、従業員3名で矢式1型の生産を開始したのが、はじまりでした。
当社で編機が一番売れたのは、昭和44年から45年ごろだと思います。「だれが編んでも同じ物が編める」というのが人々に受け入れられた最大の要因でした。
欲しがったのが女性たちなら、売って歩いたのも女性たち。当時の編機の値段はだいたい初任給の1か月分くらいと言われていましたが、編物教室の先生の中には、発売直後の編機をバイクに積んで売り歩き、蔵が建ったという武勇伝も聞きました。
当時の主婦は、外で収入を得るチャンスがほとんどありませんでしたから、編物教室の先生は「資格がすぐに取れて、編機販売と生徒の月謝で収入が得られ、家族の洋服を編んで家族にも喜ばれる」格好の内職でした。
今は素敵な洋服が安価に手に入る時代ですから、おかしなものを手作りするよりも買ったほうがいいという人が大半になり、販売台数は減りました。けれども「だれが編んでも同じ物が編める」編機から、バソコンソフトを使って、自分の思い通りのイメージの作品が編める編機が登場していますので、進化した編機の魅力をぜひたくさんの人に知っていただきたいと思います。