木炭は、炭屋が炭俵で家まで運んできました。炭切は、家庭によって、自分でやるうちもありましたが、わたしの家では、炭屋が炭切までやり、それを、揚げ板という、台所の床下の収納庫で保管していました。
冬の朝は、まず炭を熾して、家じゅうの火鉢や炬燵に火をいれてまわりました。熾った炭を十能(じゅうのう=炭火を持ち運ぶ道具)からとりだし、火箸で灰の上に立てて置きます。火鉢というのは、灰をかぶせておけば、空気にふれないので、燃え盛ることはありません。
家に人気が少なくなる昼間は、灰をかぶせておきます。そして、学校から帰ってきたら、灰の中から炭をとりだして、3時のお茶のお湯を沸かすのに使いました。夜はまた、炭を継ぎ足し、父親のお燗をしたり、汁物をあたためたり、いろいろ使いました。さらに、使い残しの炭は、火消し壷に入れておいて、翌日また使いました。
焙烙(ほうろく)
鏡開きの時分になると、祖母が、火鉢の上に焙烙(ほうろく=素焼きの浅い土鍋)をのせて、砕いた餅をあぶり、砂糖醤油や普通のお醤油をまぶして、おやつをつくってくれました。
何しろ、気長にやらないとこげますから、年寄りには、ぴったりの仕事でした。本当はわたしはこのおやつが嫌いで、「ああ、またあれか・・・」と子ども心にうんざりしたものです。でも、火鉢で煮たお豆はおいしかったですね。埋火にした火鉢で、時間をかけて煮た豆は、よく蒸れて、ガスでは真似のできない味でした。
長火鉢
長火鉢といって、長方形の火鉢もありました。中央に五徳(ごとく=火鉢に鉄瓶をのせる鉄製の道具)があり、脇には、銅壷(どうこ)といって、お湯を保温する入れ物が組み込まれていました。
銅壷からくんだお湯は、沸騰したてのお湯とはまた違った、やわらかい味がしたものです。長火鉢には、桐の引き出しもついていて、中に入れたおせんべいが湿気にくいという利点もありました。
七輪
火鉢よりも本格的な炊事道具としては、七輪がありました。戦後の一時期、ガスの供給が止まったときは、七輪でご飯を炊きました。炭を継ぎ足すタイミングが難しかったですが、そこは経験で、たいていおいしく炊けました。
ガスがふたたびくるようになると、さすがに、七輪でご飯は炊かなくなりましたが、サンマは時々焼いていました。ご近所の奥さんたちとしめしあわせて、うちで火を熾した七輪を隣から隣へと回し、向う三軒両隣の食卓に、焼きたてのサンマが並んだこともありました。
木炭の話のついでに、石炭の話もしますと、うちでは、戦前から石炭で沸かしたお風呂に入っていました。銭湯通いが普通だったこの時分に、お風呂がある家はめずらしかったと思います。
中学生になると、炊きつけもやりました。火バサミで石炭をくべながら、温かい場所で本が読めるので、雑巾がけなどより、よほど割のいい手伝いでした。昭和41年にガス風呂にしましたが、そのときまず驚いたのは、お湯が硬いこと。肌にさすようなお湯だなと思いました。それから、すぐ冷めることにも驚きました。
石炭のお風呂なら、空気窓を閉めてしまえば、石炭を継ぎ足さなくとも、あと一人や二人は入れましたし、翌日の残り湯もほんのり温かく、寒い冬の洗濯に重宝したものです。田舎から出てきた方などは、ガス風呂のことを、「つけたいときに、つけられて、消したいときに消せる、なんて便利なお風呂だろう」と感激していましたが、石炭風呂は、石炭を継ぎ足さなければひとりでに消えてくれます。つまり消し忘れがない。そういう便利さもあるのに、と思っていました。
それから、余談ですが、うちの母は、ガス風呂にするのをひどく渋りました。根が怖がりなので、マッチを擦ると同時に、ボッと火がつくガス風呂は、母にとってはひどく恐ろしいものに思えたようです。洗濯機も、感電するのが怖くて、ダメ。今となっては、笑い話ですが、本人は真剣でしたから、まわりもそれ以上、すすめられませんでした。
昔の生活をふりかえってみると、火鉢の炭を継ぎ足したり、お風呂の水を継ぎ足したり、継ぎ足す仕事がたくさんありました。もちろん、自分だけでなく、後から使う人のことも考えて継ぎ足すわけです。そういう生活習慣の中から、昔の人は、家族や近所の人への配慮を自然と身に着けていったのだと思います。