戦後、洗濯機の登場により、日本の主婦は「たらいに洗濯板」の重労働から解放されていきました。
経済企画庁編の昭和三十六年度版「消費と貯蓄の動向」の中に示された耐久消費財についての調査結果によると、当時の都市生活者の50.2%が洗濯機を所有していたようです。 しかし、不思議なことに、当時の家事の合理化は、洗濯時間の短縮をもたらしませんでした。
労働科学研究所の藤本武氏が行なった主婦の生活時間調査によると、家事専従の主婦の1951年と1960年の平日の洗濯時間は、1951年が52分なのに対して、1960年は55分と3分増える結果となっています。当時の家庭百科を見ると、「洗濯機の普及は、洗濯をしながら炊事をするとか掃除をするとか、だぶって仕事がなされていることも多く、洗濯時間中に新聞を読むというように休息の時間とだぶっていることも考えられます。
したがって、洗濯時間が長くなったことが、必ずしもそのための労働が多くなったとは考えられません。ただ、洗濯機やよい洗剤ができたことで、らくに洗濯ができるので、洗濯の回数がふえたとみることはできますし、世の中全体が身なりをきれいにしているのだから、少しでも垢のついたものは家族に着せられないという気持も主婦にはできているでしょう」『ホームライフ1.暮らしの科学 講談社』と分析されています。
では、当事者である主婦は、どのような気持ちで、洗濯機という新しい機械を使っていたのでしょうか。前回に引き続き、杉並区在住の主婦の井上知子さんに、洗濯にまつわる思い出を伺いました。
―― 昭和35年に結婚されたと伺いましたが、当時の洗濯の様子を教えてください。
「わたしが嫁いだとき、井上の家には、円形の攪拌式洗濯機がありました。まんなかに、羽根のついた心棒があって、ゴットンゴットンと動くだけの簡単なものです。高価なわりには、効率の悪いものでしたね。噴流式洗濯機(一槽式)を嫁入り道具として持っていったので、私自身は攪拌式はほとんど使いませんでした」
―― 噴流式の洗濯機はどのようなものだったのでしょう。
「攪拌式と違って、水がグルグルと回りました。それから、洗濯槽の横に、ローラー絞り機がついていたので、絞ることもできました。ただ、ローラーの使い方にはコツがいりましたね。ローラーの幅が狭いので、洗濯物をたくさん入れると回らないんです。シャツなどは、ローラーの長さに合わせて、たたんで回したり、いろいろ考えてやっていました」
―― ローラーで絞ると、シワがつきませんでしたか?
「ですから、木綿の物などは、ピッピッとひっぱって、たたきました」
―― 木綿といえば、オムツもまだ布の時代ですよね。
「オムツは乾かないと困るので、朝食の前に洗濯しました。冬は、広げるそばからパリパリに凍っていきましたけど、三叉で竿をあげて、高々と干していました」
―― 一槽式の洗濯機の次はどんな洗濯機だったのでしょう。
「二層式の洗濯機です。脱水槽があるタイプですね。脱水が機械化されて、ずいぶん楽になりました」
―― ところで、お風呂の残り湯は使っていましたか?
「使っていました。浴室の外に洗濯機置き場があったので、浴槽と洗濯機の間に樋を渡して、残り湯が洗濯機に入るようにしていました」
―― 素晴らしい工夫ですね。でも、どうやって、樋に残り湯を流すのでしょう?
「浴槽側の樋の先に、水をためておく器をブリキでこしらえました。その器の中に、湯汲みで残り湯を入れると、樋を通じて洗濯槽に流れる仕組みです。今は、台所にドラム式洗濯機を置いているので、お風呂の残り湯は使えなくなりましたが、懐かしい思い出です」
―― 今、お使いの洗濯機で、何か工夫していることはありますか?
「洗濯機は、均等にきれいにはなりますが、部分洗いは苦手ですよね。ですから、足袋を洗うときなどは、固形せっけんをつけて、手洗いしてから洗濯機にいれます。それと、環境に対する配慮も怠らないでいたいですね。ですから、洗剤もなるべく自然を汚さない物を使うようにしています」
―― ありがとうございました。
ところで、洗濯機が一般家庭で使われるようになる直前の、日本の洗濯の様子はどのようなものだったのでしょうか。作家の重兼芳子さんは、著書『女房の揺り椅子』(註1)の中で、次のように述べています。「私が二十代の頃はギザギザの平たい板に、両手で力一杯布地を押しつけてこすりながら洗う洗濯法だった。この洗い方がいつ頃から始まったのか分らないけれど、おそらく江戸時代よりずっと昔からだろう。足で踏んづけたり石に叩きつけたりする洗い方が世界各地にはあるらしいが、洗濯板に手もみというのは、いかにも日本の女らしいやり方だ」。
さらにご自身の体験を「その伝統的な方法で、私は子供のおむつからシーツ、ワイシャツから布団カバーの類まで、毎日毎日三四時間かけて洗い続けた。亭主はウチに帰ると、着物を着て足袋をはくヒトだから、足袋の洗濯がもうたいへん。(中略)背中じゃ赤ん坊が泣きわめくし、向うではガキがけんかして瘤をつくる。汚れものの山は一向に減らないし、私はカッカッと頭にきてる」
と振り返っています。
洗濯時間が毎日三四時間とは、先にあげた生活時間調査にくらべると、かなり長いように感じられますが、いずれにしろ、子どもをおぶりながらのしゃがみ仕事は、さぞ辛かったにちがいありません。重兼さんは、その後の洗濯機の登場について、「一生のうちで最も忘れられない感動」だと綴っておられますが、盥と洗濯板の洗濯が、それだけ重労働だったということなのでしょう。
(註1) 重兼芳子 『女房の揺り椅子』 昭和59年 講談社
参考資料
「昭和のくらし博物館」小泉和子 河出書房新社
杉並区郷土博物館 特別展―映画にうつされた郊外―