小説家、小林多喜二さんの書簡集。小林さんは筆まめで、家族、友人、文学関係者、政治活動関係者など、多方面の交際相手の元に膨大な書簡が残されていた。文面からは、明るく人付き合いがよい人柄がしのばれる。ことに、ともに上京した恋人、田口タキさんへの書簡は、終始、思いやりにあふれており、感動を呼ぶ。また、 天皇制国家主義、軍国主義が、それに反対する勢力を弾圧していった当時の時代背景について、詳細な解説が付されており、文学と政治活動、小林さんがたどった両輪の軌跡がよりわかりやすく構成されている。
小林さんは、育った故郷の小樽でプロレタリア文学、労働運動に身を投じ、働きながら執筆した『蟹工船』(※1)で、脚光を浴びる。労働運動への弾圧が厳しくなり、職場を解雇され、新たな活路を求めて1930(昭和5)年に上京。しかし、まもなく西日本講演旅行中に検束(※2)、治安維持法違反容疑で起訴され、豊玉刑務所に収容される。出獄後、杉並町成宗(現・杉並区成田東)に下宿、ようやく母と弟を呼び寄せ、杉並町馬橋(現・杉並区阿佐谷南)に家を借りる。馬橋での新生活は、非業の最期(※3)によって遮断されるが、書簡集から、短期間ながらも暮らした杉並での小林さんの姿をうかがい知ることもできる。
おすすめポイント
馬橋時代の小林さんは、日本プロレタリア作家同盟書記長に就任、共産主義運動に没頭、執筆活動とあいまって、超多忙な日々だったと伝えられている。しかし、特高警察の監視の目を逃れるため、地下生活を余儀なくされる。以降の記録は、むろん残されていないが、「私は自家とは昨年四月以来消息を絶っているので、キット困っていると思うのですが、若し掲載決定しましたら、原稿料は成るべく早く、私の自家(馬橋です。多分まだそこに居ることと思いますが)へお送り下さいますよう重ねて、御願い申し上げます。」(原文ママ)との、編集者に宛てた家族への原稿料の送付を依頼する一通の書簡に、小林さんの家族への想いと、なおもあきらめていない小林さんの意欲、そして無念さが、にじみ出ている。
※1 『蟹工船』(かにこうせん):北洋漁業の過酷な労働現場で働く人々の姿を実際に起きた事件をもとに描いた小説。小林多喜二さんの、小樽の港町での幼い頃からの経験がベースとなっている。実態の描写にとどまらず、なぜそうなるのか社会の仕組みを明らかにし、プロレタリア文学の傑作といわれる。天皇を揶揄(やゆ)する漁師の発言の箇所が不敬罪に問われ発禁処分を受けるも、発刊後わずか2年間で3万5000部の売り上げを記録した
※2 検束:警察権によって個人の身体の自由を拘束し、警察署など一定の場所に一時留置すること。旧明治憲法下の行政執行法に規定されていた。行政執行法は、1948(昭和23)年に廃止された
※3 小林多喜二さんは、1933(昭和8)年2月、築地署の特高警察に逮捕され、拷問を受けて即日、絶命した。遺体は杉並署から遺族に引き渡されて馬橋の家に戻り、多数の警官が取り囲む中、危険を顧みずに集まった人々によって通夜が営まれた。当時、小林さんの死因は心臓麻痺と報じられ、真相が明らかにされたのは戦後のことだった(参考:『小林多喜二 21世紀をどう読むか』(岩波新書))