東京新聞(昭和39年3月11日)によると、天皇が利用したのは、明治時代以前からこの地域の名主を務めていた中田家の屋敷内の建物だった。この頃の様子について、五十嵐(旧姓中田)正子氏は『杉並区広報』(昭和46年7月20日号)で次のように語っている。「父の話によると、長屋門の入口からご休息の離れまで(約50m)朱の毛せんを敷きつめ、その上を天皇様がお通りになるのを有難く拝顔したそうです。」(原文ママ)
また、当時の当主、中田村右衛門氏の縁戚にあたり、荻窪の地を良く知る方に伺ったところ、 1946(昭和21)年春、中田村右衛門氏は家屋敷を藤澤乙安氏に譲渡。1987(昭和62)年、同地にアメリカン・エキスプレス(※2)などがオフィスを構える高層ビルが建てられた。現在の御小休所と長屋門は、この建築の際にビルの南側に移築復元されたものだそうだ。
明治天皇は各地へ精力的に行幸したことで知られる。明治神宮崇敬会によれば、これは「天皇を中心とする新しい時代の到来を国民に知らせるため、また立憲君主としての修学を目的として」のことだった。1883(明治16)年4月に荻窪小休所へ立ち寄られたのも、行幸の一環であった。
明治天皇(1852年9月22日誕生)は、日本の第122代天皇である。父、孝明天皇の崩御により、1867年1月、16歳(数え年)で京都で皇位についた。同年12月、討幕派の主導で王政復古の大号令が発せられて新政府が成立。明治改元と合わせ、東京遷都、地方巡幸など、従来の天皇制を刷新する取り組みがされた。1889(明治22)年には大日本帝国憲法を公布し、皇室典範を制定。翌年には、憲法の施行、帝国議会の開設、教育勅語発布など、天皇を中心とする中央集権体制の確立が進められた。1912(明治45)年7月30日、持病の糖尿病が悪化し崩御。
現在、荻窪御小休所は公開されておらず内部を見ることはできない。
『杉並区史探訪』によれば、荻窪御小休所の面積は11.75坪。当時の屋根は茅葺(かやぶき)だったことが明らかであり、間取りは6畳2間に廻(まわ)り廊下と床の間と押し入れとなっていた。屋根を除くすべてに杉材が使用されているが、飾り金具一つない質素な様子に、著者の森秦樹氏は「ここに明治天皇や皇后様が、本当にご休憩になられたのかと疑う位でした」(原文ママ)と感想を残している。
また、前記東京新聞には、この御小休所に中田村右衛門氏は明治天皇の立像を飾り、天皇が小金井の桜について詠んだ御歌の軸を掛けるなど、天皇への深い敬慕を示していたと記されている。
この新聞記事及び『躍進の杉並』の記述によると、1925(大正14)年3月、東京府(※3)は同邸前に史跡の標識を建て、さらに1934(昭和9)年11月には文部大臣が史跡名勝天然記念物保存法により「明治天皇御小休所」として史跡に指定した。
各資料および古地図『東京近傍図』によると、江戸時代、この場所のすぐ北の道路は青梅街道の旧道であり、街道沿いには一帯の名主を務める中田家が屋敷を構えていた。当時、杉並付近には善福寺池を中心として野鳥が多く、鷹狩(たかがり)の地であり、中田家は、第11代将軍徳川家斉(いえなり)が寛政年間(1789-1801)に鷹狩で度々訪れた際、休憩に立ち寄る場所だったと伝えられる。その折、地域の名家といえども農家に将軍が立ち寄るのでは威光に関わると、将軍家が中田家に命じ、特別に武家長屋門を造らせたとのこと。『杉並区史探訪』には、前記、藤澤氏の家族が中田氏から伝え聞いた話と前置きした上で、「このようないわれから明治天皇行幸の際も御小休所として指定されたのではないでしょうか。」と語ったことが記されている。
『明治天皇行幸年表』および前記東京新聞などによれば、荻窪で明治天皇が休息されたのは、1883(明治16)年4月16日に埼玉県飯能の近衛師団演習統監に向かわれる途中。小1時間ほど中田秀吉(村右衛門の父)邸で休息された後、名馬「金華山」に乗り換え、飯能に向かわれた。また1週間後の同年4月23日には、小金井の観桜会へ向かわれる途中で同邸に立ち寄られた。この2回の行幸に際して金計七拾円が下賜(かし)され、感激した中田氏は小金井の桜を買い、青梅街道経由で荻窪の邸に荷馬車で運んだという。以降、明治天皇が崩御する1912(明治45)年まで、侍従らにより毎年行われた小金井観桜遠乗会の折にも、必ずこの御小休所が利用された。
また、家族写真の他に同時期に撮影された御小休所内部の写真もある。向かって左の部屋には明治天皇の立像が飾られ、右側には「明治天皇御製」と書かれた掛け軸2幅が掛けられている。この写真により、前記東京新聞の記事「この御小休所に(中略)明治天皇の立像を飾り、天皇が小金井の桜について詠んだ御製の掛軸を掛けるなど」が裏付けられた。また、写真をもとに小金井の桜について詠まれた御製を調べたところ、以下の2首が該当した。
左の掛け軸
こがねゐの里ちかけれど この春も人傳にきく花ざかりかな
(明治25年 小金井の櫻をおもひやりて)
右の掛け軸
春風にふきのまにまに 雪とちる櫻の花のおもしろきかな
(明治16年4月23日 小金井に遠乗りしける時花のもとにて)
佐藤氏は旧中田家屋敷跡を訪れるため周辺地図を検索していたところ、長屋門の北側に庚申塔があるのに気付いたという。一緒に現地に向かうと、藤澤ビル正門左側にある築山(※4)の木立の間に「庚申」と刻まれた石塔が立っていた(※注 築山は安全上の理由により関係者以外立ち入り禁止)。
庚申塔裏面には「弘化四丁未 歳十一月吉日 願主 下荻久保村 中田村右衛門 建之」と刻まれている。佐藤氏は、家系図から、建立したのは11代中田村右衛門氏と推測した。なお、杉並区教育委員会発行の「文化財シリーズ36 杉並区の石仏と石塔」にも、この庚申塔の写真・年銘・塔型・寸法・所在地が記載されている。
藤澤乙安氏は、長屋門、御小休所の他に、村右衛門建立の庚申塔も大切に守り継承していたのである。
※1 行幸:天皇が出かけること
※2 アメリカン・エキスプレスは2020(令和2)年に移転。その後、サンライズなどが同ビルに本社を構える
※3 東京府:1868(明治元)年から1943(昭和18)年まで存在していた日本の府県の一つ。現在の東京都の前身に当たる
※4 庭園に山をかたどって小高く土を積み上げた所
『杉並区史探訪』森秦樹著
『躍進の杉並』南雲武門編
『東京新聞』(昭和39年3月11日)
『杉並区広報』(昭和46年7月20日号)
『明治天皇行幸年表』明治天皇聖跡保存会編
『東京の歴史名所を歩く地図』ロム・インターナショナル(河出書房新社)
『東京近傍図』(古地図史料出版株式会社)
『明治天皇聖跡』(HPより)明治神宮崇敬会
『明治神宮叢書 第七巻御集編(1)』明治神宮編(古書刊行会)
「文化財シリーズ36 杉並の石仏と石塔」(杉並区教育委員会)