戦前に誕生したジンギスカン専門店-成吉思荘

なぜ東高円寺でジンギスカンだったのか?

昭和初期から平成初期まで、区立蚕糸の森公園の青梅街道を挟んだ反対側に、ジンギスカン専門店 「成吉思荘(じんぎすそう)」があった。ジンギスカンで有名な北海道とはゆかりがない杉並にありながら、政財界、軍部、芸能界などから多くの著名人が訪れた人気店だった。
経営していたのは、明治時代から宮内省(当時)御用達の肉店として赤坂で営業していた「松井商店」である。最後の経営者である故・松井統治(まつい とうじ)さんを取材した東京新聞の記事「ジンギスカン誕生秘話」(2005年5月28日朝刊)によると、祖父・平五郎さんが「国から羊の食肉利用について協力を求められ、それがきっかけで成吉思荘を始めることになった」という。その背景には、日本人が洋装をするようになり、素材の羊毛を得るため「農商務省は一九一七(大正六)年、国内で百万頭の羊を飼う計画を立案。(中略)羊肉を食べる研究も行われた」ことがあった。
1925(大正14)年、松井商店は農林省から国内初の羊肉販売商に指定される。1933(昭和8)年からは、所有していた東高円寺の別荘地で羊肉の試食会を始めたそうだ。そして、約2年の試行錯誤を経て、1936(昭和11)年に羊肉を焼いて食べるジンギスカンの店を開店した。

「成吉思汗料理」の看板を掲げた入り口(出典:『躍進の杉並』昭和37年発行)

「成吉思汗料理」の看板を掲げた入り口(出典:『躍進の杉並』昭和37年発行)

「ジンギスカン誕生秘話」(東京新聞 2005年5月28日朝刊)。成吉思荘の元経営者であった松井統治さんのインタビュー記事

「ジンギスカン誕生秘話」(東京新聞 2005年5月28日朝刊)。成吉思荘の元経営者であった松井統治さんのインタビュー記事

ジンギスカン鍋の人気店

当時、北海道では羊肉を金網で焼いていたが、成吉思荘では現在も使われているような真ん中が盛り上がった丸い鍋で羊肉を焼くのが特徴的だった。「ジンギスカン誕生秘話」(東京新聞)には、「陸軍省の関係者が三十(昭和五)年ごろ、烤羊肉(※1)の鍋を松井商店に待ち込んだという話がある」という、北海道立中央農業試験場の高石啓一さんのコメントが掲載されている。
約300坪の敷地にあった日本庭園に点在するパオ(※2)で飲食するスタイルも評判を呼んだ。1943(昭和18)年ごろになると、親戚の女優・木暮実千代(※3)らが経営に関わったことも功を奏して、成吉思荘をひいきにする著名人も増えた。
こうして戦前から繁盛したが、1994(平成6)年に閉店となり、現在ではマンションが建ち並んでいる。

日本庭園に点在したパオ(出典:『躍進の杉並』昭和28年発行)

日本庭園に点在したパオ(出典:『躍進の杉並』昭和28年発行)

「梅六青果店」小島啓子さんの思い出

東⾼円寺駅通り商店会(ニコニコロード)の会⻑を務める「梅六⻘果店」では、成吉思荘の開店当時から、野菜や果物を納品していた。⾁と⼀緒に焼く野菜のほか、「ニラの漬物」という珍しいメニューに使うニラや、⾃家製タレの材料となるリンゴを多く届けていたという。また、梅六⻘果店の小島さんは成吉思荘に幼友達がいたこともあり、「たぶん経営者の松井さんのお嬢さんだったと思うのですが、子供の頃よく一緒にパオで遊んでいましたよ」と笑う。店先に⿊塗りの⾞が並んでいた様⼦も印象に残っているとのこと。1980年代には自身もPTA会合などに利用していたそうだ。「開店当初は広い敷地を誇っていたが、少しずつ規模を縮小していったので、閉店のときには、それほど大きな喪失感はありませんでしたね」と語ってくれた。

関東大震災前の1920(大正9)年から営業を続ける「梅六青果店」。小島さんの旧姓は梅田、店名の「梅六」の由来でもある

関東大震災前の1920(大正9)年から営業を続ける「梅六青果店」。小島さんの旧姓は梅田、店名の「梅六」の由来でもある

「現場主義のジンパ学」が紹介する成吉思荘

「正しいジンギスカン料理の歴史を掘り起こす」ことを目標とし、ジンパ(ジンギスカン・パーティーの略)学と称してジンギスカンの史実を追究している「現場主義のジンパ学」(※4)というウェブサイトがある。サイトオーナーの尽波満洲男(じんぱ ますお)さんは、松井統治さんとのインタビューを通じて、在りし日の成吉思荘を紹介している。
この記事の執筆に際し尽波さんに連絡をすると、松井さんから聞いた話として「ジンギスカン愛好会とでもいうべきクラブが発展して、中国人のコックを雇って北京料理も出せる料理店として開店したのです」と教えてくれた。

映画評論家・荻昌弘さんが語る成吉思荘の味
「現場主義のジンパ学」では成吉思荘を訪れた人も紹介しており、映画評論家の故・荻昌弘さん(※5)もその一人である。荻さんは、連載していた雑誌「サンデー毎日」の「味で勝負」という飲食店紹介コラムで成吉思荘を取材し、戦前に訪ねたときの思い出話や、取材当時の店の魅力などを記載している。書きぶりから、料理のおいしさはもとより、店内の雰囲気やサービスも掛け値なく素晴らしかったことが伝わってくる。

▼関連情報
現場主義のジンパ学(外部リンク)

1962(昭和37)年ごろの日本庭園(出典:『躍進の杉並』昭和37年発行)

1962(昭和37)年ごろの日本庭園(出典:『躍進の杉並』昭和37年発行)

開業まで成吉思荘で暮らしていた老舗旅館の女将

東京都新宿区の神楽坂に、映画監督や作家が泊まり込みで仕事をしていた「和可菜」(※6)という小さな旅館があった。女将の和田敏子さんは木暮実千代さんの実の妹で、旅館を開業するまでは成吉思荘を切り盛りしていた養母と一緒にそこに住んでいた。和田さんや木暮さんの甥にあたる黒川鐘信(くろかわ あつのぶ)さんの著書『神楽坂ホン書き旅館』には、東条英機(※6)をはじめとする多くの大臣や陸軍幹部の打ち上げや宴会などに、成吉思荘が利用されている様子が書かれている。
また黒川さんの別の著書『木暮実千代 知られざるその素顔』によれば、「成吉思荘が繁盛したのは、料理やパオの珍しさによるものだけではない。女将の存在が大きかったから」とあるが、この女将が前述の和田さんの養母で、木暮実千代さんの叔母(実父の弟の妻)にあたる。もともとは東京都東京市下谷区(現東京都台東区の西部)の高額納税者であった和田牛乳の女将であり、客商売の才に恵まれていたのかもしれない。牛乳店廃業後、請われて成吉思荘で手伝っていたそうだ。

東高円寺のパオで食されていたジンギスカン、特に誕生したばかりの戦前はどのような味がしたのか、非常に気になるところである。

※1 烤羊肉(こうやんろう):ジンギスカンの元となったとされる北京の羊肉料理
※2 パオ(包):主にモンゴルの遊牧民が利用する伝統的な移動式住居で、ゲルとも呼ばれる
※3 木暮実千代(こぐれ みちよ):1918-1990。戦前から1980年頃まで活躍した女優
※4 ウェブサイト「現場主義のジンパ学」:「羊頭掲げ羊肉食普及を図った松井本店」「嘗てはお客に肉を焼かせなかった成吉思荘」を参照
※5 荻昌弘(おぎ まさひろ):1925-1988。映画評論家。料理研究家やオーディオ評論家など多分野で活躍。月曜ロードショーの名解説者としても知られた
※6 和可菜(わかな):1954(昭和29)年開業、2015(平成27)年廃業
※7 東条英機(とうじょう ひでき):1884-1948。軍人・政治家。第40代内閣総理大臣

著書『神楽坂ホン書き旅館』には成吉思荘について書かれた箇所が複数ある。「成吉思荘が戦前よりも繁盛したので」と、高度成長期の活況ぶりについての記述もある

著書『神楽坂ホン書き旅館』には成吉思荘について書かれた箇所が複数ある。「成吉思荘が戦前よりも繁盛したので」と、高度成長期の活況ぶりについての記述もある

DATA

  • 出典・参考文献:

    「ジンギスカン誕生秘話」(東京新聞 2005年5月28日号)
    『神楽坂ホン書き旅館』黒川鐘信(新潮文庫)
    『木暮実千代 知られざるその素顔』黒川鐘信(日本放送出版協会)
    『続・味で勝負』荻昌弘(毎日新聞出版)
    『躍進の杉並』昭和28年・昭和37年発行(躍進の杉並刊行会)

    「現場主義のジンパ学」尽波満洲男ホームページ http://www2s.biglobe.ne.jp/~kotoni/index.html

  • 取材:矢野ふじね
  • 撮影:矢野ふじね、ヤマザキサエ
  • 掲載日:2020年11月24日
  • 情報更新日:2020年12月01日