私の家は6畳・4畳半・3畳・台所があり、北側の狭い庭に風呂おけを設置していました。裏路地の突き当たりのお宅のおいっ子さんは都内の士官学校で寮生活をし、週末だけ親戚の家で過ごしていました。そのお兄さんは長剣を差して軍隊式の足音を立て路地に入り、木戸の前でざっざっと靴を鳴らし「○○、ただいま戻りました!」と敬礼して名乗り、木戸が開くまで待っています。その声が聞こえると、ああ、お兄さんが来たとわかりました。
やがて、お兄さんが出征することになり、高円寺駅まで見送りに行くと、皆が旗を持って万歳をして送り出していました。私は子供の直感で、もう二度と会えないと感じ、わんわん泣き出してしまいました。かっこよくて憧れのお兄さんだったのです。誰も泣いてない中で一人泣きじゃくっていると、おじさんが「泣くんじゃないよ」と言ってピカピカの50銭銀貨2枚を手に握らせました。私はびっくりして泣き止んでいました。
お兄さんはフィリピンのレイテ島で戦死し、二度と戻ることはありませんでした。
戦地で頑張っている兵隊さんたちを励ますため、学校で慰問袋を送りました。袋の1つ1つに生徒が書いた手紙が入れられ、誰が受け取ったのかはわかりませんが、後日兵隊さんからの返事が学校に届きました。皆がそれぞれの返事を読んでいると、同級生が私に「みどりちゃんのお父さんって絵が上手なんだね」と絵葉書を見せてくれたのです。細かいペン画で、ジャングルの中で木の上から大蛇が垂れ下がっている様子が描かれていました。父はアンナン(当時のフランス領インドシナ・ベトナムの中部)にいるようでした。今思えば、手紙の主が娘の同級生だと知った父が、娘に自分の返事を見てもらえるように丁寧に絵を描いたのでしょう。きっと私の手紙も誰かから見せてもらっていたのだろうと思います。
夏には萩山駅(東村山市)近くの野営訓練場に行き、生徒みんなでテントを張って宿泊しました。夜は灯りを持って少し離れた神社まで肝試しに行きました。女子の多くはあまりの怖さにキャーキャー泣いていました。
1944(昭和19)年に小学校を卒業した私は、井草高等女学校に進学しました。入れ違いで小学校に上がった弟は、入学と同時に学童疎開で福島に行きました。私も新潟の親戚宅に疎開できるか打診しましたが、5人兄弟がいて受け入れは難しいと言われました。ならば幼子を抱えている母と「死なば諸共だね」と東京に残ることにしたのです。
女学校では3年生以上は学徒動員がありましたが、2年生までは授業が行われていました。敵国の言葉を知るために英語の授業もありました。
制服は紺の襟なしの上着に白い丸襟のブラウスで、桜の中に井の文字の徽章(きしょう)。配給切符を持って学校指定の仕立て屋で作ってもらいましたが、半年ですぐに小さくなって着られなくなり、母のメリンス(ウールの平織の生地)の着物を紺に染め直して代わりの服を作りました。生地の配給がないので、制服が着られなくなった生徒は私服で通うしかありません。運動靴も手に入らないので皆下駄を履いて登校しました。お昼はふかし芋があれば良いほうで、お弁当箱に野菜だけ入れてきている先生もいました。
1945(昭和20)年、2年生の頃には米軍機が本土に頻ぱんに飛来するようになりました。生徒たちで防空壕(ぼうくうごう)を校庭に掘りましたが、地面は砂利を混ぜて固めてあったため溝を掘るのが精いっぱいで、結局、空襲警報が鳴ったら校舎に避難しました。
女学校にいる時に空襲警報が鳴り、上空を見るとすでに米軍機が近づいて来ていました。みんなで校舎の北側に避難し、校庭側の窓から様子をうかがうと、東の空からワーンと音を立てて偵察機が、その後にB29の大群が飛んで来るのが見え、井草の上空辺りで南へ進路を変えて荻窪方面に飛んで行きました。地上から機銃掃射で応戦していましたが、成層圏を飛んでいるB29までは届かず、小さな花火が打ち上がっているだけのように見えました。私は子供ながらに「これじゃ日本は米国に勝てないよなあ」と思いました。
空襲警報が解除されると、先生は皆に帰宅するよう言いました。しかし、先ほどの爆撃で線路の電線が垂れ下がっており、電車は運行していません。私は都立家政駅まで線路の上を歩いて、馬橋まで帰宅しました。学校は空襲を免れましたが、自宅を焼け出された先生方4家族が用務員室などに間借りしていました。
夏休みは空腹を紛らわすためにずっと本を読んで過ごしました。裏庭に植えたカボチャは、トイレのくみ取り用の塀の隙間から侵入され収穫直前に盗まれました。
8月15日は全員登校するように連絡がありましたが、学校まで歩く気力がわかずさぼってしまい、玉音放送は聞きませんでした。
終戦直後のある日、私は八王子の親戚の家へ食料を分けてもらうために朝6時半ごろ阿佐ケ谷駅から電車に乗りました。8時前に八王子駅に着き、9時過ぎにおじさんの家に到着すると「この辺りは進駐軍がうろついているので、危ないから早く帰ったほうがいい。今は野菜はこれしかないけど持っていきなさい」と小さなナスを3~4本持たせ、リヤカーで日野駅の手前まで送ってくれました。駅に着くと、電車は8時から進駐軍の専用車両になっており、一般人は乗れません。困った私は近くにいた人に「この道を真っ直ぐ行けば新宿に着けますか?」と尋ねました。「行けるけど新宿まで歩くの?」と驚かれましたが、新宿に戻れば空襲で焼けた都電の軌条(レール)をたどって家に帰れると考えたのです。
私は白い日傘を差して甲州街道を東に歩きました。道端の茂みに入り用を足し、夕立に合うと木の下で雨宿りをしました。やがて生垣の向こうに電車が動いているのが見え、同じ方向へ歩く人たちの後を付いて行くと、京王線東府中駅にたどり着いたのです。そこから新宿まで電車に乗り、都電の軌条を歩き、日が暮れる頃、家に帰ることができました。母は私が出掛けた後、ラジオで進駐軍専用列車のことを知り無事に帰れるか心配しており、この時ばかりは抱き合って喜びました。
弟が疎開先から戻って来ました。シャツの縫い目にびっしりシラミが付いており煮沸消毒しました。女学校では進駐軍への敵対行為と思われないよう木刀やなぎなたを農家の納屋に隠しました。母は生活費の足しに隣の大きなお屋敷でお手伝いの仕事を始め、毎朝新聞の 「今日の帰国船」の欄で外地からの引揚げ船の到着日時と寄港地を調べていましたが、ビルマにいる父の帰還がいつになるかわからないままでした。
1947(昭和22)年の秋、父が突然帰ってきました。父の顔を知らずに育った妹がなかなか懐かず困りました。翌年には阿佐谷~中村橋間のバスが開通し、西武線の鷺ノ宮駅までバスに乗り上井草駅で降りればほぼ歩かずに通学できるようになりました。すると今度はバスが遅れるたびに遅刻するようになって、ついには一学期間で15回遅刻してしまったんですよ。
『躍進の杉並』昭和28年発行(躍進の杉並刊行会)
「戦火焼失区域表示 最新東京詳細地図」(三和出版株式会社)
「地理院地図」(国土地理院)
「1945年~1950年 空中写真」(国土地理院)