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竹内ひで子さんが語る原水爆禁止署名運動

杉並から始まった原水爆禁止署名運動  

1954(昭和29)年3月1日、米国によるビキニ環礁での水爆実験で、静岡県焼津港所属の遠洋マグロ漁船第五福竜丸が被ばくした。その後の新聞・ラジオ・雑誌の報道で放射能の脅威に対する不安が一気に広まると、魚の買い控え、価格の大暴落により全国の水産業は深刻な打撃を受けた。そんな状況の中、杉並区和田で魚商「魚健」を営んでいた菅原健一さん、トミ子さん夫妻が「水爆実験禁止の署名運動を!」と声を上げた。
杉並から全国へ、そして世界へ広がった原水爆禁止署名運動について、菅原夫妻の六女・竹内ひで子さんに話を伺った。

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原水爆禁止運動を語り継ぎ、平和活動に取り組む竹内ひで子さん

原水爆禁止運動を語り継ぎ、平和活動に取り組む竹内ひで子さん

水爆実験が変えた平和な日々 

わが家は小さな魚屋でした。杉並区立和田中学校の正門前に、米屋、八百屋など家族で営む商店と一緒に並んでいました。父は毎朝早く東京都中央区築地の中央卸売市場に買い出しに行き、帰ったらお客様の御用聞きに回り、夕方にそれぞれの家に配達していたんです。まだスーパーなどない時代でした。店先ではトロ箱(魚を入れる木箱)に氷を入れ、魚を並べて販売しました。サンマが一匹10円くらいの頃で、小学生の私と妹で、バケツいっぱいのサンマをご近所に売りに行くこともありました。当時、肉や卵はまだまだぜいたく品で魚は貴重なタンパク源だったんです。今よりもマグロをはじめ魚は安価で、日々の食卓には魚料理がよく上りました。
そんな日常をすっかり変えてしまったのが、1954(昭和29)年3月1日に米国がビキニ環礁で行った水爆実験でした。私が11歳の時です。


菅原健一さん、トミ子さん夫妻(写真:竹内ひで子さん提供)

菅原健一さん、トミ子さん夫妻(写真:竹内ひで子さん提供)

それは「第三の被ばく」だった 

1945(昭和20)年、広島・長崎への原子爆弾(原爆)投下の翌月に、GHQ(進駐軍)がプレスコードを発令し、原爆に関する全ての報道や論評の厳しい規制・統制が始まりました。GHQが廃止された1952(昭和27)年4月までの6年7カ月もの長い期間にわたり、日本国民は広島・長崎の原爆被害の実相や実態を知ることができなかったのです。
それから2年後の1954(昭和29)年に、米国が核兵器開発のための水爆実験をビキニ環礁で行いました。この水爆「ブラボー」は広島に投下された原爆の1,000倍の威力で爆発して、大量の放射性物質を拡散し、危険区域外で操業中の遠洋マグロ漁船の第五福竜丸が被ばくしました。また、同じ海域で操業中だった漁船856隻も被ばくしました。広島・長崎に次ぐ三度目の被ばくでした。

被ばく当時の報道を伝える「ピースフォーラム」の展示パネル(資料提供:竹内ひで子さん)

被ばく当時の報道を伝える「ピースフォーラム」の展示パネル(資料提供:竹内ひで子さん)

報道がもたらしたもの

父は3月17日、早朝いつものように魚河岸で仕入れをした後、午後3時の全国放送のラジオで「米国の水爆実験によって第五福竜丸23名の乗組員が被ばくした」という報道を聞きました。その時は、魚の被ばく状況についてはそれほど詳しく報道されていなかったのです。でもその日の夕方、注文の魚を届けに行った家々で「放射能汚染の魚は恐ろしいから食べない」と全てキャンセルされました。翌日から客足はぱったり途絶えてしまいました。
それからは連日、テレビ・ラジオが各地の港に揚がったマグロの放射能量や第五福竜丸の乗組員の被ばく状況を次々に報道しました。ラジオからマグロの放射線量を計るガーガーという音が流れ、「死の灰」「原子マグロ」などの言葉が広まり、道ゆく人は店を避けて歩くというありさまでした。5月には放射能を含んだ雨が日本の広域に降り、農作物も放射能を浴びました。


「報道は子供ながらに衝撃的でした」と竹内さん

「報道は子供ながらに衝撃的でした」と竹内さん

水産業の危機に立ち上がった父と魚商たち 

父は杉並の魚商組合の役員でした。営業不振で頭を抱える魚屋さんたちに父は「政治や経済がわからなくても、安全で安心して食べられる魚を売りたい。生活と営業を守ろう。それには米国の水爆実験をやめさせ、遠洋漁業を守ろう!水爆実験禁止の署名運動をしよう!」と提案したのです。この呼び掛けに、杉並中の魚商が結集しました。さらに中野や浅草の魚商と共に、築地の中央卸売市場に来る魚商や買い出し人たちにも「水爆実験による被害対策に立ち上がろう」と結束を呼び掛けました。台東区の鷲(おおとり)神社を拠点に、東京中から連日連夜60人ほどの魚屋さんたちが集まって対策会議を行い、水爆実験の禁止を訴えるビラを10万枚作り、署名簿をそれぞれの魚屋の店頭に置き、家族ぐるみで署名運動に取り組みました。
水爆実験によって起こった漁場・漁業・食の危機、被害の甚大さに、3月17日の報道を受けて即、声を上げ、わずか数日後には対策行動に立ち上がったのです。

魚の安全性を訴える張り紙(写真提供:焼津市歴史民俗資料館)

魚の安全性を訴える張り紙(写真提供:焼津市歴史民俗資料館)

大規模集会の開催へ

3月29日には、杉並魚商水爆被害対策協議会が結成されました。そして4月2日に「買い出し人水爆被害対策市場大会」が開催されました。築地の中央卸売市場の講堂で開かれ、魚商、仲買業者、すし組合、小揚げ(練り物)組合などの業者の代表、約530人が参加しました。魚商や業者たちが切実な声を上げ、独自で開いた集会と聞いて驚いたNHKや新聞社各社が取材に来て、報道陣が注視する中で大会は開催されました。片山哲元首相のほか、各政党の代表も参加したそうです。大会終了後には、米国大使館と日本の各官庁へ陳情請願を行い、「大会決議書」(※1)と原水爆禁止署名簿を手渡しました。
そして4月12日に、杉並魚商水爆被害対策協議会が「9項目の陳情請願書」を杉並区議会に提出しました。

築地中央市場買出人水爆被害対策委員会の署名簿(資料提供:竹内ひで子さん)

築地中央市場買出人水爆被害対策委員会の署名簿(資料提供:竹内ひで子さん)

杉並魚商水爆被害対策協議会の「9項目の陳情請願書」(資料提供:竹内ひで子さん)

杉並魚商水爆被害対策協議会の「9項目の陳情請願書」(資料提供:竹内ひで子さん)

区をあげての「杉並アピール」

杉並区議会は、4月17日に水爆実験禁止決議を全会一致で採択し、4月22日には決議文を政府と米・英・仏・ソ連の各大使館に送付しました。
そして5月9日、杉並区立公民館(※2)に労働組合・婦人団体・文化団体・PTAなどの20以上の団体の有志と個人30人が集まり、水爆禁止署名運動杉並協議会が結成されました。議長は安井郁公民館長。ここで「杉並アピール」が決定されました。「水爆禁止のために全国民が署名しましょう」「世界各国の政府と国民に訴えましょう」「人類の生命と幸福を守りましょう」というスローガンが書かれた署名簿を作り、杉並の区民運動として署名運動がスタートしました。区長をはじめ、全区議、全職員が署名し、区役所の窓口には署名簿が置かれました。商店街でも店にポスターが張られ、署名簿が置かれました。区の大きな支援の下に、区民は創意工夫して草の根の運動を大きな運動へと展開していきました。

国会議事堂前の陳情団(写真提供:竹内ひで子さん)

国会議事堂前の陳情団(写真提供:竹内ひで子さん)

母の訴え-杉並区立公民館での出来事

母は、初めて署名運動に取り組む魚商のおかみさんたちを励ましながら、父と共に署名運動に力を注いでいました。
4月16日に杉並区立公民館で開かれた杉並婦人団体協議会(※3 以下、婦団協)主催の「婦人参政権行使記念講演会」の終了間際のことです。母が震えながら手を挙げて「水爆実験で魚が売れなくて、このままでは店を閉めなければなりません。私たち魚商組合で原水爆禁止の署名運動に取り組んでいます。米国の水爆実験問題を婦団協の会議で取り上げてください」と訴えたのです。この母の発言に安井郁公民館長が「これは魚屋さんだけでなく全人類の問題です」と応えたことで、即刻、婦団協は臨時会議を開き、原水爆禁止の署名に参加することが決議され、その場で全員が署名しました。その後、数回の婦団協の会議で署名運動に賛同し参加することが決定されました。そして、公民館を拠点に、婦人たちが当番体制を自主的に作り、手弁当で署名活動に打ち込んでいったのです。

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公民館で署名簿を整理する婦人たち(所蔵:杉並区立郷土博物館)

公民館で署名簿を整理する婦人たち(所蔵:杉並区立郷土博物館)

杉並から全国へ、そして世界へ  

署名は予想以上の速さで進み、7月には27万筆以上になりました。杉並区民(当時約39万人)の7割以上が署名した勘定です。27万筆のうちの17万筆は婦団協を中心とする、女性たちが集めた署名数でした。
原水爆禁止署名運動は、杉並から日本の津々浦々へ、そして世界の国々へと急速に広まり、幅の広い平和運動へと発展していきました。8月8日には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、事務局は原水爆禁止杉並協議会に置かれました。そして翌1955(昭和30)年1月、オーストリアのウィーンで開かれた「世界平和評議会」では、日本の原水爆禁止署名運動が紹介され、世界中に知られることになったのです。
また、全国に展開した運動の一つ「第一回 日本母親大会」が6月7日に開催され、母親たちが、原水爆禁止によって生命・食・暮らしの安全・安心と平和を守ることを誓いました。8月6日には「第一回 原水爆禁止世界大会」が広島で開催され、14カ国と3団体から52人、日本各地からの代表2,575人が参加しました。杉並からは21人の代表を送り出しました。

杉並協議会による水爆禁止署名運動のポスター(写真提供:杉並区)

杉並協議会による水爆禁止署名運動のポスター(写真提供:杉並区)

両親の思いを語り継ぐ

私が署名運動について人に伝えたり、平和活動に参加したりするようになった大きなきっかけは、1984(昭和59)年の「ビキニデー」30周年の大会です。この大会を通して当時の両親の行動や思いをより深く理解できたのだと思います。このビキニデーの後「すぎなみピースフォーラム」主催のイベントで「杉並から始まった原水爆禁止署名運動」のコーナーを責任を持って担当するようになりました。また、時にはいろいろな所へ出向いて署名運動についてのお話をしています。
問題や事件などが起こった時、声を上げなくてはならない時に勇気をもって声を上げるのは素晴らしいことですが、その時に1人でも多くの人と一緒に、共に声を上げることがとても重要なことだと両親に教わりました。子供の頃に両親の日々の活動や背中を見て学べたのは、私にとって大きな財産だと思います。

※1 大会決議書:米国政府に「原水爆実験即時中止・禁止」と「全被害の損害賠償」を、日本政府に「原水爆禁止決議」「営業と生活補償」を求めた決議書
※2 杉並区立公民館:1953(昭和28)年11月、現在の杉並区立中央図書館の北側に開館。1989(平成元)年3月に閉館し、機能は杉並区立社会教育センターに移行した
※3 杉並婦人団体協議会:安井郁公民館長の働きかけで、1954(昭和29)年に結成された女性団体の連合組織。現「杉並女性団体連絡会」の前身

築地市場での大会について解説する竹内さん

築地市場での大会について解説する竹内さん

DATA

  • 取材:仲町みどり
  • 撮影:TFF
    写真提供:竹内ひで子さん、焼津市歴史民俗資料館
    取材日:2023年02月03日
  • 掲載日:2023年04月17日