1931(昭和6)年の竣工時は大きな一つの木造平屋だったが、1998(平成10)年に、現居住者が玄関・客室・書斎部分を移築改修し、つながって見えるようデザインを統一した別棟を敷地内に新築した。移築の際には、建物を壊さずそのままの状態で移動する曳家(ひきや)という日本の伝統技術が用いられた。屋根や玄関、ポーチを兼ねたベランダなど特徴的な外観部分は竣工当時のまま残されており、2008(平成20)年に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
内部は非公開だが、玄関土間にはアール・デコ調の装飾が施され、室内には木工科の教授でもあった滋賀氏がデザインした和洋折衷の家具類が保存されている。かつては和室に椅子が置かれていたそうで、和風か洋風かどちらか一方に決めるのではなく、双方の形式の良いところを取り入れ暮らしやすくしていたことがうかがえる。
滋賀氏はアメリカで建築学を学び、1903(明治36)年に画期的な住宅改良論を発表した。
「家の中心は女性である」と主婦の家事労働軽減の重要性を主張し、この自宅でその思想を実践している。玄関の上がり框(かまち)や床を低くし、段差をなくすなど、バリアフリーを取り入れ、最も居心地の良い場所は自身の書斎などではなく高齢の母親や女中の部屋としていた。そのかいもあって、滋賀氏の母親から妻、娘、孫まで、女性たちが代々この家で快適に住み続けてきたという。
また、滋賀氏は「外は見せよ、内は隠せ」と考えていた。建物には公共性があるとして、高い塀などで外から見えなくするのではなく、通行人の目を楽しませるような庭を造り、人々が気軽に交流できるようなベランダを設けた。一方、家の内では家族間であっても独立性は確保されるべきで、障子やふすまで仕切るだけではなく、他の部屋を通らずとも行き来ができるようにしていたそうだ。
『竪琴』第三十九号~第四十四号 竪琴の会
『お屋敷散歩』内田青蔵(河出書房新社)
『住まいの建築史 近代日本編』内田青蔵(創元社)
「明治以降の住様式の変化・発展に関する一考察」青木正夫
「住宅建築という命題 明治における三つの住宅論とその観念に関する研究」高橋元貴