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林家木久扇さん

日本橋生まれ、西荻育ち

生まれは日本橋なんですが、生家が東京大空襲で焼けちゃって、戦後は西荻窪にある母親の親戚を頼って移りました。今も駅前にありますよ、坂本屋さん。当時は和菓子屋さんでした。ぼくは高校卒業するまで西荻窪です。疎開で一時八戸にいましたが、終戦の玉音放送は校庭で聞きました。朝礼の台の上にラジオを置いて、正座して聞きました。大人がずいぶん泣いていました。
校舎がなくて授業も校庭だったなあ。天気がいいとお日様でわらばん紙のはしっこが反り上がって。墨で塗りつぶされた教科書でね。
今も杉並区には月に2、3回は遊びに行っています。天沼の剣道道場大義塾、今ぼくがOB会長なので、ちょいちょい顔を出しています。小学校の頃の友だちもいますしね。大義塾は高校時代に通っていましたが、ぼくと同期に元首相の橋本龍太郎氏がいました。

チャンバラごっこで日が暮れる

生まれ育った日本橋にくらべると杉並は本当に緑が多くて、西荻窪駅の北口を出るとすぐ善福寺川があって、小さいけれど関根山の雑木林と森があって。ザリガニ釣ったり、チャンバラごっこしたり枝に縄ぶら下げてターザンごっこですよ。昔の男の子は棒を拾っちゃ刀にして腰に差してましたねえ。あと山の斜面に水を流してヌルヌルにしてトタン板のさきをスキーみたいに曲げて川にむかって滑るんですよ。ぼくはこれがとてもうまかった。いちばんの思い出っていうと、自然の中で遊んだことですね。

アトリエ前でチャンバラのポーズ

アトリエ前でチャンバラのポーズ

木久扇少年が見た昭和芸能史

ぼくは小遣い稼ぐませた子どもでね、一人で電車に乗って西荻窪から浅草に行ってね、大江美智子の女剣劇(※1)みたり、シミキン(※2)の喜劇見たりしてました。子どもが一人でそんなところへ行くのは大冒険でしたが、劇場の人に珍しがられてかわいがられました。
そして、映画が好きでよく観ました。とくに西荻窪の映画館・西荻館は顔パスでした。小4からそこでアイスキャンディーを売ってましたから。坂本屋さんから2円で仕入れて映画館には2円払って、ぼくは1円の稼ぎ。よく売れました。
ただね、売れないときもありました。大画面いっぱいに女優の原節子さんがアップになって、もうちょっとで映画が終わるそのときに、臭い始めた。バキュームカーが来たんですよ。トイレはまだくみ取りで、強烈に臭った。こうなると口に入れるものは売れません。参りましたね。
でも、あのころの経験は本当に宝です。ぼくの『昭和芸能史』(※3)になりましたし、マクラにも使えます。ぼくは子どもの頃から絵が得意で、チャンバラ映画を観てはシーンを思い浮かべて毎日絵を描いてました。それが、のちに『キクゾーのチャンバラ大全』(ワイズ出版)を作るときにすごく役に立ちましたよ。

(※1)大衆演劇の一つで女性が一座を持ち、男装して剣劇のお芝居をする。股旅ものが多い。
(※2)清水金一(1912- 1966) 浅草の軽演劇、トーキー映画初期のコメディアン。シミキンの愛称で親しまれた。
(※3) 新作落語、木久蔵時代の代表作のひとつ。

食べることと稼ぐことばかり考えていた

子ども時代は生活苦がついて回りました。小4で両親は離婚、母は駅で新聞と宝くじを売って働いてました。だから、ぼくは少しでもお金を入れることを考えてました。小4から空瓶拾いですね。でも楽しかったですよ、辛くはなかったなあ。
河口湖に遠足に行ったときも、お昼みんながおかずの交換をしている間に、空瓶拾ってお金に換えたりね。観光地だからたくさん落ちてたんです。あの頃で500円くらいにったかなあ。帰ったら母が「お兄ちゃんは頭がいいねえ」てほめてくれました。学校の勉強はできませんでしたが、生きていくための頭は働いたんですね。
今の子どもは昔とは環境が違うんでしょうが、構われすぎですよね。全部用意されているからね。もし将来何かになりたいなら、人生の先生を自分で捜すと良いと思います。人頼みでなくね。

木久扇・木久蔵ダブル襲名のダルマ前で

木久扇・木久蔵ダブル襲名のダルマ前で

木久蔵ラーメンのルーツは春木屋?!

家に食べ物がないことが今でもだめで、冷蔵庫が豆腐とおしんこだけとか、空いていると慌てて買い物に行って中をぱんぱんにしちゃう。高校を選ぶとき、学芸大の図案科を考えたんだけど中野工業高校の食品化学科に進みました。森永乳業に入社した理由も食べ物。結局、漫画の道に進むんですけどもね。ずっと食べ物にこだわり続けて、その延長が『木久蔵ラーメ ン』なんです。
チェーン展開して、一時27店舗ありましたが、今はインターネットと東京駅と羽田空港などで売っています。まずいまずいと言っていると判官贔屓で『ホントはそうでもないんだろう』と思われる。まずいという売り方は、ウチの販促なんですね。しかもどこで売っているのか分からないから人さまが探してくれる(笑)。味は、鶏ガラと煮干しダシのシンプルな東京の中華そばです。子どもの頃から食べていた味ですよ。
杉並に住んでいたころ食べたラーメンというと、荻窪の春木屋さん。高校時代、剣道の帰りによく行きました。ぼくは新聞配達の小遣いがありましたから、少年剣士たちを連れてね。あの時の味は木久蔵ラーメンの味に影響しているかもしれないなあ。


いつでも仕掛けていないとね
絵の仕事は、ぼくの高座の影になっていますけれども、注文は月に10本くらいありますね。雑誌ばかりでなく、ここのところは学校図書のお手伝いもしています。言葉遊びの本「だじゃれ ことばあそび100」(チャイルド本社 11年)や子供向け古典落語の挿し絵です。
今 考えているのが、「ラーメンてんぐ」(09年チャイルド本社)の絵本をアニメシリーズにすることです。ラーメンてんぐは『木久蔵ラーメン』のキャラクターで、やなせたかし先生にほめられたんですよ。スターウォーズみたいに、壮大な物語を狙っているんです。それで、笑点だけでなくアニメで世界に発信して「日本には面白いヤツがいるぞ」と思われるようになりたいですね。
ぼくは何かの賞がほしいと思った事は一度もないんです。落語の世界にも賞はいろいろあるけれども。それより、ずっとぼく自身を面白がられたい。こないだも中島みゆきさんの声を遅くするとぼくの声になるとかでTV番組※1で取り上げられました。ヴィジュアル系のメイクをしてGACKTさんに間違えられたりね※2。いろいろなことをやっています。芸人はいつでも仕掛けていないとね。


※1 TBS「まさかのホントバラエティー イカさまタコさま」2012年3月30 日放送。
※2 2012年4月18日にリリースされたヴィジュアル系カバーアルバム『Visualist ~Precious Hits of V-Rock Cover Song~』でカバージャケットのモデルを務めた。


取材を終えて
『笑点』のボケ役『キクちゃん』と思うと大違い。素の師匠は、クリエイターであり、サービス精神いっぱいのアイディアマンであった。一方で東日本大震災の支援でチャリティや落語会に参加、「この年になると欲得なしで人の役に立ちたいと思うようになりましたね。」という言葉が印象に残った。
▼大義塾剣道教室ホームページ
▼トヨタアート公式ホームページ

林家木久扇 プロフィール
はやしや・きくおう 本名・豊田洋 1937年(昭和12)東京日本橋生まれ西荻育ち。東京都立中野工業高校卒。日本テレビ『笑点』のレギュラーを69年11月より守り続け、 『キクちゃん』の愛称で親しまれる落語家。幼少より絵が得意で、58年漫画家デビューするも、60年師匠の漫画家清水崑に薦められ落語家に転身。3代目桂三木助 に入門し木久男の名をもらうが、61年三木助死去により、林家正蔵(後の彦六)一門に移籍、林家木久蔵となる。65年9月二ツ目昇進、73年9月真打昇進。82年全国ラーメン党を結成し会長になる。落語はもちろん、映画・ラーメンなどの分野で多くの著作がある。また、錦絵、挿し絵など絵の仕事も精力的に行う。2007年長男林家きくおに木久蔵を譲り、自らは木久扇と名乗る落語界初の親子ダブル襲名披露を行った。(社)日本漫画家協会正会員(社)落語協会理事(社)俳人協会会員、有限会社トヨタアート代表取締役。

木久蔵ラーメン

木久蔵ラーメン

アトリエで饅頭こわいの挿し絵を持って

アトリエで饅頭こわいの挿し絵を持って

DATA

  • 取材:小泊明美
  • 撮影:チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2012年01月01日

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