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北原潤一さん

機械いじりが大好きな少年

中学生までは、おとなしい子どもだったという。「女ばかりの兄弟というのもありました。そんな環境でもなぜか機械、電気は大好きでね。機械をいじっているだけでいつの間にか何時間もたっていた……ということがよくありました。夢中になっていると、ついご飯を食べるのも忘れてしまって」と笑う北原さん。その笑顔から、機械をいじるのが心から好きだという気持ちがこちら側まで伝わってくる。
小学校から高校まで放送部に所属。そこでは放送部の技術的な活動を担当し、またその他にも機械の調整や音響効果の装置も作っていたという。

社交的な青年だった学生時代

「都立明正高校に通っていたのですが、この頃が一番楽しかったですね」その高校時代は放送部の活動だけではあきたらず、合唱に参加したり、フォークダンスの同好会を作ったりと、とても社交的だった。

その後、工学系の大学へ進学。ダンスを踊ったり、某女子短大と合同合宿をするなど大学生活を謳歌した。
そんな中、大学が分校を作ることになり、神奈川県平塚市へ移転。自宅から遠くなったが、朝早く家を出てせっせと大学に通った。
「当時はまだ大学の校舎もできていなかったんですよ。極めつけは、遠いためか教授がなかなか出てこない。次の時間は授業があるのかな?と思って待ってていても来ないんです」そんなことがしばしばあり、向学心に燃える北原さんにとって物足りない日々が続いた。「遠いうえにきちんと勉強ができないのでは大学にいても意味がないですよね。結局大学は退学してしまいました」

ロボットをつくる会社へ就職

大学を退学した後、近所の電気屋に勤めはじめた。「アパートの配線や真空管テレビなどを直していました。当時はちょうどカラーテレビが一般家庭に普及し始めた頃でしてね。まさしく何でも屋でしたね(笑)」
一年ほど勤めた後、昭和42(1967)年、22歳の時に義兄の紹介でロボットを製作する会社に就職。
「最初の頃は踊るサイバーロボットなど作っていました。当時はリース形式でデパートの催し物に貸し出したりしていたんですよ」
1970年の大阪万国博覧会(以下万博)では日本館ブースの出し物で、文楽人形ロボットを3体製作し話題になったり、岡本太郎による「太陽の塔」の内部の生命の樹に乗る人や恐竜、アメーバなど製作したロボットを動かした。
「これはとても楽しい仕事でしたね。それに、なにより日本が高度成長期で、みんなとても元気があったんです」
ところが万博が終わる頃から、会社の売り上げが落ち込こんでくる。一緒に仕事をしていた仲間が次々と退職していき、その会社で働くのは北原さん一人となってしまう。北原さんもやむなく退職。昭和50(1975)年、30歳の時のことである。

エレテック創立

ロボット製作会社を辞めて、すぐに結婚。それと同時に自宅でロボット製作の仕事を始めた。「ラッキーなことに大手代理店や、勤めていたロボット製作会社からの仕事がありまして。それで生計をたてていました」
ちょうど高度成長期の波に乗り、仕事もどんどん入ってくるようになる。次々に舞い込んでくる仕事を請け、ロボット製作に打ち込む日々が続いた。そのうち注文の多さにより、部品を広げたり、試作するスペースが足りなくなってきた。その上、従業員も4人いたので、自宅では手狭になった。
そこで自宅から5~6分のところに仕事場用としてアパートを借りたが、手狭になり目黒区青葉台に仕事場を移転。その後昭和59(1984)年、株式会社エレテックを会社登記する。

バブル崩壊後

その後もひたすらロボット製作を手がける。その他に造型、製造、メカなどの仕事もするようになった。
しかし時代はバブルが崩壊し、不況の波が押し寄せてくる。北原さんは考えた末、従業員2人を残して事務所をたたみ、平成4(1992)年に40坪ある自宅の1階を仕事場にした。心機一転の再スタートである。
その後、再開発により周辺の家が売り出しされるようになってきた。住居兼仕事場の自宅も大正時代からの古家ということもあり、売却を検討。北原さんは機械を置ける広さのある家を探して、3ヶ月で100軒の物件を見た。
「機械を置けるなんて、なかなかそんな物件はないですよね。でも僕の仕事はロボット製作ですから、機械を置ける、試作できる、動かせるスペースがあるというのは必須なんですよね。ひたすら仕事の合間をぬって探し歩きました」

杉並区への移転

ちょうど良い物件を見つけ、現在の堀ノ内の場所に移転したのは平成18(2006)年のこと。
「以前は駅も近く便利ではありましたが、ビルばかりで喧噪としていました。そういう意味ではここ堀ノ内は駅から遠いですが、閑静で住みやすいですね」

北原さんの仕事は、まず発注のあったクライントや代理店と綿密なな打ち合わせから始まる。その後、メカの設計に入りロボットの造型(ロボットの髪型・衣装・靴などの小物も含む)、きちんと動くかどうかの制御の確認をする。当然その間も、クライアントとの打ち合わせは何回もある。
受注する製品は全て特注品。通常はクライアントからオーダーを受け、完成まで3~4ヶ月かかるが、最近は大きな作品であっても納期が短いことが多いという。
「やはり不況の影響もあるのかもしれませんね。クライアントものんびり完成を待つ、というわけにはいかないのだと思います」
その分、北原さんの仕事は余計に大変だと想像する。

これから
現在は、大阪大学からスペースアートの協力を頼まれている。
「スペースアートというのは、宇宙飛行士のための憩いや、将来、宇宙で過ごすための宇宙芸術ということでしょうか。といっても遠い未来なので、まだまだ試行錯誤ですね。これからも今までと同じく、注文してくれるお客さんの要望に応えて仕事をしていきたいと思っています。本当は将来を考えると、きちんと大学で専門の勉強をした若い人たちにバトンタッチして仕事を任せていきたいのですが…」

取材当日は土曜日だったが、物静かに微笑を浮かべて出迎えてくださった北原さん。平日は打ち合わせやクライアントとの予定が突発的に入るので、会社で仕事に専念できる日は、どうしても土曜日になるという。また、一言一言じっくりと考えながらお話される姿は、いかにも「職人」という言葉が合う。できればその腕は、次代を背負う若い人たちにもつないでいって欲しい、そう思わずにはいられない。

エレテックがこれまでに関わった仕事
北原さんが製作したロボットたち、それは人々に夢を与えてくれる「ハイテクロボット」といえるだろう。その他に北原さんが携わった作品は、からくり時計、舞台装置、科学展示装置造形、と数多い。たぶんこの記事を見ている読者も一度か二度、どこかで出会っているのではないだろうか。それほど北原さんの作品は全国に数多くあるのだ。
ただ残念なことにクライアントに「博物館・科学館・役所・全国の広告代理店」が多く著作権の関係などもあるので、ここでは名前をきちんと提示できないという事情がある。

・全国にある科学館、博物館、企業の展示館、遊園地他、ライブ会場の舞台装置、装置造形関連
・万博、地方博、モーターショーなど各種イベント関連の舞台装置
・音声合成認識ロボット(話しかけると返事をする鳥)
・ゴジラの映画に使われた動くゴジラロボット
・韓国の博覧会にて、3ミリ幅のカーボンファイバー(炭素繊維)で、実際の車を吊る
・広島県竹原市のかぐや姫ロボット
・歌舞伎座の真向かいにあるビルの、1階の店舗から2~3階まで丸いガラスが上下するオブジェ(電気を通すと透明になり、電気を消すと曇りガラスになる特殊ガラスにプロジェクターで映像を映し出す)
・銀座ソニービルで某電話会社のオープニング展示
・銀座ソニースクエア 愛の泉システム(毎年年末に設置されていて、愛の泉にコインを投げると鐘が鳴るしくみ。寄付目的で20年続いた)
・大阪駅前のからくり時計
・名古屋駅前アミューズメントビル(いろいろなものをレールに這わせて移動、モニター映像を2.5ミリの輪に流す)
・府中競馬場の場内案内(マスコットの馬がカーテンを開けて出てきて、客へのインフォメーションアナウンスをする)
・四ツ谷3丁目の消防博物館(見学者がミニチュアの消防車を動かし、消火活動をすることができる)
・東急プラザ・スキップの全館ムービングディスプレイ
・国際花と緑の博覧会「形状記憶合金の桜」試作

(株)エレテック
*住所:〒166-0013 堀ノ内2-32-20 電話:03-5377-5081
*業務内容:ロボット・からくり時計、ムービングディスプレイの製作、設置。舞台装置・科学展示、設置。造形・機械、電子制御装置の製作、設置。そのほかコンピューターのハード・ソフト製作、デザインの開発、設計、保守点検

北原潤一 プロフィール
ロボットクリエイター。 空間演出会社(株)エレテック代表取締役。1944年東京都渋谷区代官山生まれ。杉並区堀ノ内在住。 子どもの頃から電気や機械が大好きだった。小学校高学年で理科の先生が作る模型のモーターを、北原少年がかわりに製作するほどになる。22歳のとき義兄の紹介により、ロボット会社に就職。1975年、30歳で独立しエレテックを創立。以来一貫して、企業から依頼された数々のロボットを製作してきた。現在、大阪大学が研究中の、スペースアート製作にも携わっている。

DATA

  • 最寄駅: 方南町(東京メトロ丸ノ内線) 
  • 取材:高橋貴子
  • 撮影:みっこ
  • 掲載日:2010年11月18日
  • 情報更新日:2016年03月31日